説教者 稲葉基嗣牧師
ヨハネによる福音書の7章は、
ユダヤの秋のお祭りである、
仮庵祭が開催された時期の出来事を記録しています。
このお祭りは、収穫を喜ぶためだけの
お祭りではありませんでした。
仮庵、つまり、一時的な住まいとして
テントを建てることは、
彼らの先祖がかつて荒野で
生活をしていたときを思い起こさせました。
食べ物も水も満足に得られない荒野での生活を
神が最後まで守り導いてくださった。
そんな古代イスラエルの歴史的な経験を
ユダヤの人びとは思い起こし、お祝いしました。
あの時、神は自分たちの先祖たちの旅を導き、
彼らを養い、その生活を支えてくださった。
あの時、あの時代に
神の守りと導きがあったように、
神は今も、そしてこれからも、
自分たちを支え、導き、養い続けてくださる。
ユダヤの人たちは、
自分たちのそんな信仰的な希望を
このお祭りを毎年のように
お祝いすることを通して、確認し続けました。
そんな仮庵祭が最終日を迎えたときの出来事を
ヨハネによる福音書はわたしたちに紹介しています。
仮庵祭の最終日に、
イエスさまは人びとの前で叫びました。
「渇いている人は誰でも、
私のもとに来て飲みなさい。
私を信じる者は、聖書が語ったとおり、
その人の内から生ける水が
川となって流れ出るようになる。」(37−38節)
ヨハネが紹介するこのイエスさまの言葉は、
イエスさまがわたしたちにとって、
どのような方であるのかを
よく表している言葉です。
水を得て、喉の渇きを癒やされ、
身体や心の活力が吹き返すように、
イエスさまは、わたしたちの魂や心の渇きに、
たしかに働きかけ、その渇いている部分に
水を注ぎ、生かしてくださる方です。
たしかに、日常の中ですり減っていく
心や魂の疲れを癒やす道具は、
わたしたちの身の回りにいくらでもあります。
心や魂が疲れを覚える時は、
たくさん休めば良いですし、
好きなことをすれば良いですし、
また、たくさん眠るべきです。
色々な手段を用いて、
わたしたちは自分の心や魂を
ケアする必要があります。
でも、いつでも同じ方法で息を吹き返せるほど、
わたしたちの心や魂は単純ではありません。
だからこそ、わたしたちは、わたしたち以上に、
わたしたち自身のことをよく知っておられる、
イエスさまにこそ、この心や魂を
ケアしていただく必要があるでしょう。
イエスさまこそ、どのような時も、
わたしたちの心や魂の渇きを癒やすために、
生きた水を注ぎ続けることができる方です。
「渇いている人は誰でも、
私のもとに来て飲みなさい」と、
わたしたちに語りかけ、
わたしたちを招き続けてくださっている、
イエスさまのその声は、
わたしたちにとっていつも、
励ましに満ちているものです。
そのようなわたしたちに対する愛と慈しみに満ちた、
励ましのメッセージが込められているように思える、
イエスさまのこの言葉ですが、
仮庵祭に参加した人たちにとって、
どのようなものとして受け止められたのでしょうか。
彼らも、わたしたちと同じように、
イエスさまの言葉を受け取ったのでしょうか。
きっと、違う印象を受けたと思います。
というのも、仮庵祭の期間中、
水は、特別な意味を持っていたからです。
お祭りの期間中、町の外にあるシロアムの池から、
祭司が水を汲んで、エルサレム神殿に運んで来ました。
そして、その水は、
祭壇のそばにある器の中に注がれました。
この儀式が行われている間、
神殿で働くレビ人たちは、
楽器を演奏し、歌を歌ったようです。
とても楽しげな、お祝いの儀式だったのだなと
想像できますね。
このように、水が祭壇のそばに注がれるという儀式は、
旧約聖書に記されている預言者の言葉を
人びとに思い起こさせるものでした。
それは、エゼキエルやゼカリヤといった預言者たちが
伝えたとても豊かな未来の希望を
人びとに想像させる言葉でした。
きょうはゼカリヤの言葉を読みましたが、
そこで描かれていることは、
神殿から水が湧き出て、
世界中を潤すというイメージです。
ユダヤの人びとは、これがメシアが訪れたときに、
この世界に起こることだと考えていました。
そう考えると、この仮庵祭の最終日に、
イエスさまが叫んだ言葉は、
違った意味合いを帯びてくることに気づきます。
イエスさまは言います。
「渇いている人は誰でも、
私のもとに来て飲みなさい。
私を信じる者は、聖書が語ったとおり、
その人の内から生ける水が
川となって流れ出るようになる。」(37−38節)
イエスさまの言葉によれば、神殿からではなく、
イエスさまから、命を与える生ける水は湧き出ます。
そして、イエスさまから水を与えられるだけではなく、
イエスさまを信じる人びと自身も、
生ける水が湧き出る存在となる。
そんな宣言をイエスさまがしていることに気づきます。
さて、その場にいた人たちは、
どのような思いで
イエスさまの言葉を聞いたのでしょうか。
ある人たちは、このような言葉を語るイエスさまを
預言者として受け止めました。
預言者エゼキエルやゼカリヤが
語ったような出来事を解釈して、
イエスさまがこのような宣言しているからです。
でも、ある人たちには、
イエスさまは預言者以上の存在のように思えました。
イエスさまこそが、預言者たちが紹介した、
救い主メシアの姿と一致する人物のように、
彼らには見えました。
だから、一部の人たちは、
この人こそメシアなのだと騒ぎ出しました。
けれども、イエスさまのことを
よく知る人たちにとって、
それは馬鹿らしい話でした。
「違うよ。あの人はガリラヤ出身だよ。」
「メシアはダビデの子孫なのだから、
ガリラヤ出身の人がメシアであるわけない。
一体、何を言ってるんだ?」といったように。
このように、イエスさまは、
色々なかたちで受け止められました。
ですから、イエスさまの評価を巡って、
人びとは議論し、騒ぎました。
この時の様子について、ヨハネは、
人びとの間で対立や分裂が生じたと書いています。
イエスさまをどのように評価するかで、
彼らは意見が一致せず、揉めています。
一見、イエスさまが対立や分裂を
もたらしたようにも見えてきます。
たしかにそれは、他の福音書の中で
イエスさまが語っていることとも一致します。
イエスさまが対立や分裂をもたらすことは、
ある意味で、それは自然なことなのかもしれません。
というのも、イエスさまを信じて、
イエスさまに従って生きようとするならば、
わたしたちは、これまでと全く同じように
生きることはできないからです。
イエスさまがわたしたちに与えてくださる水は、
神の霊である聖霊でしょうが、
神の霊を通して、わたしたちが受け取っているものは、
神からの愛であり、慈しみであり、平和です。
イエスさまの言葉によれば、
イエスさまから水を受けている人びとは、
その内側から水が湧き出る存在へと変えられます。
ですから、既にわたしたちを通して、
イエスさまが与えてくださる水が湧き出ているならば、
神の愛や慈しみや平和は、
わたしたちの外側に少しずつ広がっているといえます。
その意味で、これまでと同じように
生きられるはずがありません。
その意味で、対立や分裂が生じてしまうのです。
神の愛や慈しみ、平和に相反することと、
イエスさまを通して与えられている生ける水は、
完全に混ざり合うことができないからです。
だから、イエスさまは対立や分裂を
この世界に生じさせる存在なのでしょう。
わたしたちの当たり前をかき乱し、
神の愛や慈しみ、平和へと
わたしたちやこの世界を
向き直そうとしておられるからです。
でも、ここでは少し話が違う気がします。
イエスさまは、彼らの対立が表面化することに、
きっかけを与えたに過ぎません。
というのも、イエスさま以外の人が
「あの人はメシアだ」と言われても、
結局、議論は起こったことでしょう。
対立も、分裂も生じたことでしょう。
それは、意見の多様さとも言えるので、
このような状況に陥ることそのものは、
そこまで悪いことではないかもしれません。
けれども、対立や分裂が生じるとき、
目の前の相手の言うことが
自分には到底理解できないからといって、
相手の存在や人格を否定するならば、
その対立や分裂は、対話を放棄し、
両者の関係を引き裂き、溝を深めるものへと
変わってしまうかもしれません。
イエスさまを捕らえようとして、
下役たちを遣わした、
祭司長たちやファリサイ派の人たちの反応は、
まさにそのようなものでした。
イエスさまの言葉に感心し、
逮捕すべきではないと判断した下役たちに対して、
「お前たちまで惑わされたのか」と言って、
彼らは下役たちを小馬鹿にし、嘲り、
彼らの言葉に真剣に耳を傾けようとしません。
しまいには、「律法を知らないこの群衆は、
呪われている」と言って、
イエスさまに好意的に反応した人たちを
過剰に罵っています。
また、イエスさまを擁護しようとする
ニコデモの言葉も一蹴します。
「あなたもガリラヤ出身なのか」と、
ガリラヤ地方の人びとを
小馬鹿にした物言いをしながら、
ニコデモを嘲っている様子が描かれています。
人の命を生き生きとさせ、活かすような、
命の水は彼らからは広がっていきません。
むしろ、人を嘲り、貶めるような、
笑い声が広がっています。
それは、人を生かす水でもなければ、
対立や分裂の事実を尊重して、
心から対話をしようとする姿勢でもありません。
実際に彼らの間がその後どうなったかはわかりませんが、
ファリサイ派の人たちや祭司長たちの姿勢は、
対立や分裂をさらに激しくし、
大きな溝を作り出していくような姿勢です。
わたしたちの生きる社会やこの世界ではどうでしょうか。
イエスさまが与える生ける水は、どの程度広がり、
わたしたちの日常や、
この世界を潤しているのでしょうか。
他人を嘲り、相手の声に耳を傾けず、
対話をしないことは、しばしば起こっています。
わたしたちの日常やこの社会では、
埋められない溝や壁を生み出してしまっています。
この世界では、不信や憎しみを深め、対立を激化させ、
終わりが見えない戦争へと導いているかのようです。
だからこそ、わたしたち一人ひとりにも、
何よりも、わたしたちが生きる社会や、この世界にも、
イエスさまの与える生ける水が必要です。
わたしたち一人ひとりの、個人個人の
心の渇きを癒やすばかりでなく、
わたしたちの生きるこの社会や
この世界の渇ききっている部分を
潤す生ける水がわたしたちには必要です。
あの時、イエスさまが
「わたしのもとに来なさい」という言葉で、
話を終えなかったことは、
わたしたちにとって、大きな希望です。
だって、イエスさまを信じ、
イエスさまに従おうとする人たちから、
イエスさまは生ける水を
湧き出してくださると言うのですから。
イエスさまからの生ける水を受け取ったわたしたちは、
その水をため続けるタンクではありません。
そうではなく、わたしたち一人ひとりも、
世界を潤す川を作り出す泉となっていると、
イエスさまは教えてくださっています。
そうであるならば、対立や分裂が激化し、
対話が諦められているような世界の中で、
自分はとても無力で、小さい存在に思えたとしても、
わたしたちはこの社会や、この世界に
命の水をもたらす存在となっています。
イエスさまが、みなさんを
生ける水が湧き出る泉として
くださっているからです。
神からの愛を受け、慈しみを知り、
平和の心を与えられいる、
そんなみなさんだからこそ、
この世界において、神の愛を届け、
神の慈しみを伝え、
平和を作っていく存在となることができます。
対立や分裂ではなく、
わたしたちを通して、平和をこの世界に
もたらそうとしておられるイエスさまは、
きょうもわたしたちに語りかけておられるのですから。
「渇いている人は誰でも、
私のもとに来て飲みなさい。
私を信じる者は、聖書が語ったとおり、
その人の内から生ける水が
川となって流れ出るようになる。」(37−38節)