朗読箇所
公現後第5主日
旧約 エゼキエル書 18:21–32
◆
21 悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。
22 彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。
23 わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。
24 しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。
25 それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
26 正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。
27 しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。
28 彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。
29 それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
30 それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。
31 お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
32 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。
新約 ヨハネによる福音書 8:21–30
◆わたしの行く所にあなたたちは来ることができない
21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
22 ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、
23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。
24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
25 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。
26 あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」
27 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。
28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
30 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。
説教
教会とは何か
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説教者 稲葉基嗣 牧師
福音書を読むと、
イエスさまとユダヤの宗教的指導者たちの間で、
何度も論争が起こっていることが目につきます。
もちろん、議論を積み重ねていくことは
悪いことではありません。
私たちは誰もが完璧な知識や判断力を
持っているわけではありません。
いつも正しい選択ができるわけありません。
いつも適切に物事を
評価できるわけではありません。
常に他の人たちのことを考えたり、
想像できるわけではありません。
そのように自分一人でできる
限界をよく知っていればいるほど、
私たちにとって対話をすることは
必要なことです。
対話を重ねながら、
私たちはより良いものを目指そうとします。
それは、イエスさまが生きた時代の
ユダヤ人たちにとっても同じでした。
立場や考え方が違っても、
彼らはお互いの言葉に耳を傾け合い、
対話や議論を積み重ねて、
知識や理解を深めようとしました。
けれども、福音書の中で描かれている、
イエスさまが加わった議論は、
あまり平和的なものではない印象を受けるのは
なぜなのでしょうか。
イエスさまの言動は、
ユダヤの宗教的指導者たちの
価値観を揺るがし、
既得権益や宗教的権威を
度々脅かすものでした。
そのため、どうにかしてイエスさまの立場を脅かし、
逮捕やローマ帝国へ訴えることへ持ち込もうと、
考える人たちがいました。
また、イエスという人物が何者なのか、
見定めようとする人たちもいました。
たくさんの人たちに認められ、
話題となっているこの人物が、
神によって遣わされた救い主メシアなのか。
それともメシアを自称し、
人びとを扇動する信頼できない人物なのか。
どうしても見定める必要を感じていました。
どちらの場合であっても、
イエスさまが加わった議論は、
イエスさまに対して常に
好意的なものではありませんでした。
ある人たちは、イエスさまのことを
貶めようとしてきます。
またある人たちは、イエスさまが何者なのか
見定めようと目を光らせているのですから。
ですから、イエスさまは多くの場合、
聖書に書かれていることを語り合い、
その意味を深めたり、
神のことや、神が人間に願っていることについて、
一緒に考えを深めていくといったことを
第一の目的として、
ユダヤの宗教的指導者たちと対話をすることは、
なかなか出来なかったのかもしれません。
きょう私たちはヨハネによる福音書が紹介する、
イエスさまとユダヤ人たちの対話を読みました。
ヨハネはおそらく、
ユダヤの宗教指導者たちを指して、
ユダヤ人と言っています。
彼らのこの時の関心は、
イエスさまが誰であるのか、でした。
つまり、神が遣わした救い主であるのか。
それとも、違うのか。
イエスさまのことを見定めるために、
彼らはイエスさまと対話を積み重ねました。
彼らのこの対話を読んでみて、
イエスさまの言葉を聞いた彼らの反応に、
私は不自然さを覚えました。
話が噛み合っているようで、
噛み合っていないような印象を受けるからです。
「あなたがたは自分の罪のうちに
死ぬことになる」とイエスさまは
3度も彼らに語っています(21, 24節)。
かなり強烈な響きを持つ言葉だと思うのですが、
このイエスさまの言葉は、
あまり中心的に取り扱われていません。
イエスさまは、彼らの関心に合わせて、
ご自分が何者であるのかについての
説明を絡めながら、この話をしています。
一体、自分が何者であるのか。
父なる神と自分の関係を説明しながら、
イエスさまはご自分が神から
遣わされた存在であることを
明らかにしました。
けれどもその一方で、
イエスさまの対話相手であった彼らは、
「あなたがたは自分の罪のうちに
死ぬことになる」というイエスさまの言葉を
これ以上掘り下げようとはしませんでした。
実際、イエスさまのこの言葉は
あまり真剣に掘り下げたくはない
言葉かもしれません。
誰だって、自分の抱える問題とは、
できれば向き合いたくないものですから。
けれども、「あなたがたは自分の罪のうちに
死ぬことになる」というイエスさまの言葉は、
私たちを取り囲んでいる現実を
とてもよく言い表している言葉に思えます。
罪と聖書が言うのは、
私たちと神との関係が
適切ではないことです。
それは、私たちが神の思いを踏みにじり、
神の愛や憐れみに生きるのではなく、
自己中心と自己正当化の中で生きることです。
また、私たちと共に生きる人たちや、
この世界と私たちとの間の関係が傷つき、
壊れた状態であることをいいます。
共に生きる家族や親戚、
友人たちや職場の人たちとの関係を通して、
私たちは嫌というほど、
自分をはじめ、すべての人が抱える
罪というものに直面します。
いやもしかしたら、それ以上に、
いじめや差別、ハラスメントといった、
私たちの社会で何度も繰り返されている
悲しい出来事を通して、
人間が抱える罪や悪というものが
嫌と言うほど見えてくるかもしれません。
生活に苦しむ人たちを更に追い込むように、
社会制度が改悪されています。
戦争が終わらない現実も、
難民や移民として生きざるを得ない人たちの
権利や尊厳が侵害され、
生きる場所が奪われようとしている現実も、
私たち人間が抱える罪の結果です。
度重なる自然災害が
温暖化や気候変動の影響を強く感じさせます。
技術の発展や快適さの背後に、
この地球環境の犠牲があることはわかっているのに、
私たちの世界は協力して、
方向転換することにいつも躊躇してしまっています。
まさにイエスさまが指摘したように、
私たちは誰もが、自分たち人間の罪に
巻き込まれ、傷つけられながら生き、
そして罪の内に死んでいくかのようです。
改善しようと努めても、
なかなか思うように改善できずにいます。
このような私たちの現実を
真剣に受け止めているから、
イエスさまが一体どんな人物なのか
知りたがっている人たちの前で、
「あなたがたは自分の罪のうちに
死ぬことになる」とイエスさまは
3度もこの言葉を語ったのでしょう。
けれども、それは私たちに
自分たちの生きる現実を突きつけ、
自分たちでは解決不可能な罪の現実に
絶望させるためではありませんでした。
イエスさまの目的はむしろ、その逆でした。
イエスさまこそ、罪の内に死へと向かう
この世界とそこで生きる私たちに、
命の光をもたらすために、
神が私たちのもとに送ってくださった方です。
それは、罪の赦しと
新しい命に生きる希望の光です。
イエスさまはその生涯をかけて、
私たちに神の愛と憐れみの内に
生きる道を示してくださいました。
自分の利益ばかりを追い求めて、
自分のことしか考えられない。
自分を愛することで精一杯で、
心をすり減らす毎日を送る私たちに、
別の道があることを示してくださいました。
それは、私たちが自分を愛するよりも先に、
何よりも私たちが神に愛されていることから
始まる生き方です。
それは、神に愛されているように、
共に生きる人たちに愛の手を差し伸べて、
お互いに助け合って生きていく道です。
イエスさまと一緒に歩むならば、
そのような道が拓けてくると、
イエスさまはご自分の歩みを通して、
示してくださいました。
またそれは、平和を追い求めて、
平和を作っていく歩みです。
イエスさまは立場や境遇によらず、
人を分け隔てすることなく、
多くの人たちと一緒に食事をしました。
社会からのけ者にされている人たちと
一緒に食事をすることで、
周囲から後ろ指を指され、嘲られることがあっても、
その場にいる一人ひとりを見つめて、
彼らを大切にされました。
そんな風に、少しずつ歩み寄って、
平和な社会を作っていくことができると、
イエスさまはご自分の歩みを通して、
私たちに示してくださいました。
イエス・キリストは、私たちといつも
共に生きることを選んでくださった神です。
罪のうちにあって、命をすり減らし、
この命をお互いに傷つけ合ってしまう私たちが
命の道を歩んで行くことができるように、
私たちの命の日の限り、
常に私たちの旅に伴ってくださる方です。
私たちは毎週の礼拝を
罪の悔い改めの祈りを
祈ることから始めています。
ですから、私たちは自分自身や
教会の交わりやこの社会のあり方に、
罪の影響が強くあることを
強く実感しています。
けれども、それ以上に、
私たちに強く働きかけ、
私たちを決して諦めず、
離さないでいてくださる方が
私たちと共にいてくださっています。
私たちやこの世界が抱える罪よりも
イエスさまを通して注がれる神の愛は、
私たち一人ひとりに
強く影響を与え続けるものです。
どうか神の愛を私たちのもとに届けてくださる
イエスさまと共に希望の内に
みなさんがいつも歩み続けることが出来ますように。
週報より
- 2025.02.09 週報より抜粋・要約
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① きょうは礼拝後に月例役員会を行います。
教会役員のみなさまはよろしくお願いいたします。
② 4月からの係の礼拝の係やチームにご協力いただける方を募集しています。
週報にはさんである申し込み用紙をご覧ください。
係を担当してくださる方は記入して、
投書箱(受付テーブルの上の白い箱)に入れてください。
③ 教会名簿の更新をします。
名簿に掲載する情報に変更がありましたら、牧師にお知らせください。
④ 【公告】 年次教会総会のお知らせ
2月16日 (日)の礼拝後に、年次教会総会を開催します。
教会員の皆さまはご出席ください。
教会員以外の方は議決権はありませんが、出席・発言はできます。
やむを得ず欠席をされる方は、委任状のご提出をお願いします。
委任状の書式はとくにありません。
委任状は、LINEでのメッセージやメールでも提出可能です。
また、総会の前にはランチの会をします。みなさま、どうぞご予定ください。
・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
・書き損じ・出し忘れのはがきをください
(アジア学院に寄付)
・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
牧師にお知らせください。
小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
詳しくは牧師にお尋ねください。
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以上