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朗読箇所

公現後第6主日

旧約 出エジプト記 1:8–14


8 そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、
9 国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。
10 抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」
11 エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。
12 しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、
13 イスラエルの人々を酷使し、
14 粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。


新約 ヨハネによる福音書 8:31–38

◆真理はあなたたちを自由にする
31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。
36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。
38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

説教

自由への招き

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    私たちの教会は、ナザレン教会という
    世界教会に所属しています。
    ナザレン教会は現在、
    「世界中の国々において
    キリストに似た弟子を作る」
    という標語を掲げています。
    ナザレン教会のこの標語は、
    「あなたがたは本当に
    私の弟子である」(31節)と語った
    イエスさまの発言を
    私たちが理解する上での
    助けになりそうです。


    弟子とは、どのような存在なのでしょうか。
    弟子は技術や学問を身に着けるために、
    先生や師匠と一緒に過ごす人たちです。
    弟子は、先生や師匠と
    個人的なつながりを持ちながら、
    時間をかけて、彼らの技術や知識、
    物の考え方などを学びます。
    時には先生の行動を通して、
    また時には先生の言葉を通して、
    弟子は自分の先生から学びます。
    けれども、先生から学ぶことが
    弟子にとってのゴールではありません。
    弟子にとってのゴールは、
    先生や師匠の姿を見て、
    彼らの技術を真似することを通して、
    彼らのものを自分の技術や知識として
    身に着けることです。
    ですから、弟子であろうとするならば、
    弟子は自分の先生のように生きようとします。
    先生の言葉を自分の血肉とし、
    師匠の技術を身体に染み込ませ、
    自分自身の一部にしようとします。
    先生や師匠の物の考え方が
    自分自身の心に、そして生き方に
    自然に浸透していくことを理想とします。


    イエスさまが「あなたがたは本当に
    私の弟子である」と語った時、
    イエスさまは「私の言葉にとどまるならば」
    という条件を加えました。
    イエスさまの弟子であるためには、
    イエスさまの言葉に
    留まることが必要だそうです。
    それは単に、イエスさまが語った言葉を
    しっかりと記憶し、
    知識として蓄えておくこととは少し違います。
    自分の先生であるイエスさまの語った言葉を
    何度も何度も思い起こして、
    その意味を考え続けて、
    そして行動へと移していく。
    それがイエスさまにとっての
    弟子たちのあるべき姿のようです。


    さきほど紹介したナザレン教会の標語は、
    誰もがイエスさまの弟子となるように、
    招かれていることを私たちに伝えています。
    イエスさまと直接会うことができた人たちだけでなく、
    現代に生きる私たちも、
    イエスさまの言葉を受け止めて、
    イエスさまの弟子として
    歩み始めることができます。
    イエスさまの語った言葉は、
    どういった意味が込められているのだろうか。
    私たちの日常やこの社会の中で、
    イエスさまの言葉は
    どのような意味を持つのだろうか。
    そして、イエスさまが教えてくれた
    愛や憐れみを私たちの日常で表し、
    この世界で平和を作っていくために、
    私たちは一体何をしたら良いのだろうか。
    そういったことを考え続け、
    行動へと移していくことを通して、
    私たちはイエスさまに似た弟子に
    なることができる。
    これがナザレン教会の標語に込められた
    信仰的な確信です。
    「世界中の国々において
    キリストに似た弟子を作る」。
    そう、世界中のあらゆる場所にいても、
    どのような背景を持っていた人であっても、
    誰もがイエスさまの弟子となれる。
    誰もがイエスさまに似た弟子となることができる。
    そのような確信です。


    ところで、弟子として生きるというあり方は、
    自分の個性を殺して生きるように
    というような勧めにも
    聞こえるかもしれません。
    先生の考え方や技術で
    自分を染め上げて、
    自分の持っている個性やオリジナリティ、
    自由な発想などが
    入り込む余地がなくなってしまう。
    いや、そもそも自分は自由なのに、
    わざわざ型に嵌めるようなことをするなんて、
    窮屈さを感じてしまうかもしれません。
    けれども、イエスさまは弟子として生きることは、
    一人ひとりの個性を殺し、
    すべての人を決まり切った型にはめて、
    窮屈な生き方を提供するものだとは言いません。
    むしろ、その逆だと言います。
    イエスさまの弟子として生きることは、
    真理を知り、自由を得ることだと言います。


    一体どういうことだと思いますか。
    それは、楽器を演奏して、
    音楽を楽しむことと
    似ているかもしれません。
    自由にピアノを弾いて良いと言われても、
    キレイな和音の作り方を知らなければ、
    不協和音が響くばかりです。
    多少弾き方を知っていたとしても、
    同じような弾き方ばかり
    繰り返してしまうことがあります。
    それは、何だか自由であるように見えて、
    実際は自由ではありませんね。
    他の弾き方を知らないがために、
    同じことばかりを繰り返すことしかできない。
    そんな不自由さに
    閉じ込められてしまうことがあります。
    楽器を演奏することにおいて、
    音楽の理論を学ぶことは、
    そんな不自由さの檻から
    演奏者を解放する助けになります。
    どうしたら美しく音を重ねられるのか。
    どうすれば、楽しげなリズムになるのか。
    どんなフレーズがジャズっぽいのか。
    知れば知るほど、演奏の幅は広がり、
    演奏における自由が手に入ります。
    理論を学んだことによって手に入れた型は、
    決して、演奏者の個性を殺しません。
    むしろ、表現の幅を広げ、
    演奏者の個性を
    更に豊かなものにするはずです。


    イエスさまの弟子として
    生きることも、同じことです。
    イエスさまの言葉を聞いて、
    イエスさまのように生きようとすることは、
    決して、私たちの個性を
    否定することではありません。
    むしろ、私たち一人ひとりの生き方を助け、
    更に豊かにするものです。
    だって、イエスさまは絶対服従の
    マニュアルを私たちに
    手渡しているわけではないのですから。
    むしろ、イエスさまは私たちに
    いつも問いかけています。
    イエスさまが人を愛する姿を
    私たちに示すことを通して、
    「じゃぁ、弟子であるあなたはどうする?」と、
    イエスさまは問いかけておられます。
    そんな風にイエスさまが愛することを教え、
    私たちに問いかけてくださっているから、
    私たちは自分が当たり前だと思っている
    愛し方以外の方法があることを
    知ることができます。
    イエスさまは損得で左右されず、
    ただただ私たち一人ひとりの存在を慈しんで、
    私たちを愛してくださっていました。
    そんなイエスさまを見つめることを通して、
    私たちは愛する方法を学び続けています。
    そうやって、更に共に生きる人たちを
    自由に愛する方法を
    私たちが模索できる可能性を
    イエスさまは示されます。
    また、イエスさまは
    人びとから偏見の目で見られ、
    嘲りの対象であったり、
    拒絶の対象であった人たちと
    一緒に食事をしました。
    そんなイエスさまの姿が
    福音書の中で描かれているから、
    私たちは自分の生き方を見つめ直し、
    問いかけることができます。
    私たちの周りやこの社会で
    排除されている人はいないだろうか、と。
    ですから、イエスさまの弟子として生きることは、
    決して決まり切った型を
    学ぶことではありません。
    自分の個性を殺して、
    イエスさまに盲目的に従うことでもありません。
    イエスさまの愛に触れた私は、
    どのように人を愛することができるのか。
    イエスさまの生き様を知った私は、
    どう生きるのか、どう物事を考えるのか。
    そんな風に考え始め、
    新しい歩みへと押し出されてしまうのですから、
    イエスさまの弟子であることはむしろ、
    私たちが自分自身で作り出してきた型から、
    私たち自身がその外へと
    押し出されていくようなものです。
    そう、個性を殺し、型にはめるどころか、
    私たち自身を更に豊かにし、
    自由を与え、生き生きとさせる。
    そんな道をイエスさまは、
    イエスさまの弟子たちの前に
    開こうとしています。


    ところで、イエスさまと対話をしていた人びとは、
    イエスさまの弟子となることを通して自由となる
    という言葉を聞いて反発しました。
    彼らの言い分は、自分たちはアブラハムの子孫だから、
    誰かの奴隷になったことなどない、です。
    実際のところ、ユダヤ人たちは
    何度も大国の脅威に晒され、
    支配されてきました。
    エジプト、アッシリア、バビロニア、
    ペルシア、ギリシア、そしてローマと、
    何度も何度も彼らは
    大国の脅威に晒され、
    支配されてきました。
    きょうは旧約聖書から、
    出エジプト記を開きましたが、
    そこでは、ユダヤ人たちの先祖である、
    イスラエル民族がエジプトで強制労働を課せられ、
    奴隷状態となっていた姿が描かれていました。
    ですから、ユダヤ人たちは実際のところ、
    誰かの奴隷になったことはあります。
    けどれど、それにも関わらず、
    彼らが自分たちは
    自由であると主張するのは、
    政治的な理由ではなく、
    精神的な理由からでした。
    政治的には、何度も支配されてきたけれども、
    アブラハムの子孫として、
    自分たちは神の民として選ばれているため、
    自由であると彼らは考えたようです。


    けれども、イエスさまは
    民族的な出自や政治的な状況を根拠に
    自由を得るわけではないと考えました。
    イエスさまは「罪を犯す者は
    誰でも罪の奴隷である」(34節)と言います。
    誰もが等しく、常に、
    罪の支配の中にあるからです。
    誰かを愛そうと願っても、
    自分のことばかりを優先してしまいます。
    どれだけ平和的に生きようと願っても、
    暴力的な言葉や行動を
    引き起こしてしまうことがあります。
    怒りや憎しみに心や行動を
    支配されてしまうこともあります。
    それが私たちやこの世界の抱える現実です。
    私たちが抱える罪が、
    私たち自身を自由にさせず、
    生きにくくさせています。


    イエスさまは、私たちのそのような現実を
    よくわかっているから、
    私たちにイエスさまの弟子として
    生きるように招き続けています。
    イエスさまのこの招きは、
    私たちが罪の支配から
    自由になるためです。
    罪に支配される生き方ではなく、
    神の愛に覆われて生きていくことが、
    どのようなものなのかを
    イエスさまは私たちに
    いつも示そうとしておられます。
    イエスさまの弟子として生きる道は
    私たちの前にいつも開かれています。
    ですから、どうか、イエスさまの弟子として歩み、
    イエスさまから愛や憐れみを学び、
    平和への道を示していただくことを通して、
    皆さんが更に自由とされていきますように。
    私たちはイエスさまの十字架の贖いによって、
    罪の支配から解放されていると信じています。
    ですから、主イエスにあって、
    罪はもはや私たちを支配しません。
    むしろ今、イエスさまの弟子として歩む時、
    キリストの愛や憐れみこそが、
    私たちの存在全体を覆っています。

    イエスさまとユダヤの宗教的指導者たちの間で、
    何度も論争が起こっていることが目につきます。
    もちろん、議論を積み重ねていくことは
    悪いことではありません。
    私たちは誰もが完璧な知識や判断力を
    持っているわけではありません。
    いつも正しい選択ができるわけありません。
    いつも適切に物事を
    評価できるわけではありません。
    常に他の人たちのことを考えたり、
    想像できるわけではありません。
    そのように自分一人でできる
    限界をよく知っていればいるほど、
    私たちにとって対話をすることは
    必要なことです。
    対話を重ねながら、
    私たちはより良いものを目指そうとします。
    それは、イエスさまが生きた時代の
    ユダヤ人たちにとっても同じでした。
    立場や考え方が違っても、
    彼らはお互いの言葉に耳を傾け合い、
    対話や議論を積み重ねて、
    知識や理解を深めようとしました。
    けれども、福音書の中で描かれている、
    イエスさまが加わった議論は、
    あまり平和的なものではない印象を受けるのは
    なぜなのでしょうか。
    イエスさまの言動は、
    ユダヤの宗教的指導者たちの
    価値観を揺るがし、
    既得権益や宗教的権威を
    度々脅かすものでした。
    そのため、どうにかしてイエスさまの立場を脅かし、
    逮捕やローマ帝国へ訴えることへ持ち込もうと、
    考える人たちがいました。
    また、イエスという人物が何者なのか、
    見定めようとする人たちもいました。
    たくさんの人たちに認められ、
    話題となっているこの人物が、
    神によって遣わされた救い主メシアなのか。
    それともメシアを自称し、
    人びとを扇動する信頼できない人物なのか。
    どうしても見定める必要を感じていました。
    どちらの場合であっても、
    イエスさまが加わった議論は、
    イエスさまに対して常に
    好意的なものではありませんでした。
    ある人たちは、イエスさまのことを
    貶めようとしてきます。
    またある人たちは、イエスさまが何者なのか
    見定めようと目を光らせているのですから。
    ですから、イエスさまは多くの場合、
    聖書に書かれていることを語り合い、
    その意味を深めたり、
    神のことや、神が人間に願っていることについて、
    一緒に考えを深めていくといったことを
    第一の目的として、
    ユダヤの宗教的指導者たちと対話をすることは、
    なかなか出来なかったのかもしれません。
    きょう私たちはヨハネによる福音書が紹介する、
    イエスさまとユダヤ人たちの対話を読みました。
    ヨハネはおそらく、
    ユダヤの宗教指導者たちを指して、
    ユダヤ人と言っています。
    彼らのこの時の関心は、
    イエスさまが誰であるのか、でした。
    つまり、神が遣わした救い主であるのか。
    それとも、違うのか。
    イエスさまのことを見定めるために、
    彼らはイエスさまと対話を積み重ねました。
    彼らのこの対話を読んでみて、
    イエスさまの言葉を聞いた彼らの反応に、
    私は不自然さを覚えました。
    話が噛み合っているようで、
    噛み合っていないような印象を受けるからです。
    「あなたがたは自分の罪のうちに
    死ぬことになる」とイエスさまは
    3度も彼らに語っています(21, 24節)。
    かなり強烈な響きを持つ言葉だと思うのですが、
    このイエスさまの言葉は、
    あまり中心的に取り扱われていません。
    イエスさまは、彼らの関心に合わせて、
    ご自分が何者であるのかについての
    説明を絡めながら、この話をしています。
    一体、自分が何者であるのか。
    父なる神と自分の関係を説明しながら、
    イエスさまはご自分が神から
    遣わされた存在であることを
    明らかにしました。
    けれどもその一方で、
    イエスさまの対話相手であった彼らは、
    「あなたがたは自分の罪のうちに
    死ぬことになる」というイエスさまの言葉を
    これ以上掘り下げようとはしませんでした。
    実際、イエスさまのこの言葉は
    あまり真剣に掘り下げたくはない
    言葉かもしれません。
    誰だって、自分の抱える問題とは、
    できれば向き合いたくないものですから。
    けれども、「あなたがたは自分の罪のうちに
    死ぬことになる」というイエスさまの言葉は、
    私たちを取り囲んでいる現実を
    とてもよく言い表している言葉に思えます。
    罪と聖書が言うのは、
    私たちと神との関係が
    適切ではないことです。
    それは、私たちが神の思いを踏みにじり、
    神の愛や憐れみに生きるのではなく、
    自己中心と自己正当化の中で生きることです。
    また、私たちと共に生きる人たちや、
    この世界と私たちとの間の関係が傷つき、
    壊れた状態であることをいいます。
    共に生きる家族や親戚、
    友人たちや職場の人たちとの関係を通して、
    私たちは嫌というほど、
    自分をはじめ、すべての人が抱える
    罪というものに直面します。
    いやもしかしたら、それ以上に、
    いじめや差別、ハラスメントといった、
    私たちの社会で何度も繰り返されている
    悲しい出来事を通して、
    人間が抱える罪や悪というものが
    嫌と言うほど見えてくるかもしれません。
    生活に苦しむ人たちを更に追い込むように、
    社会制度が改悪されています。
    戦争が終わらない現実も、
    難民や移民として生きざるを得ない人たちの
    権利や尊厳が侵害され、
    生きる場所が奪われようとしている現実も、
    私たち人間が抱える罪の結果です。
    度重なる自然災害が
    温暖化や気候変動の影響を強く感じさせます。
    技術の発展や快適さの背後に、
    この地球環境の犠牲があることはわかっているのに、
    私たちの世界は協力して、
    方向転換することにいつも躊躇してしまっています。
    まさにイエスさまが指摘したように、
    私たちは誰もが、自分たち人間の罪に
    巻き込まれ、傷つけられながら生き、
    そして罪の内に死んでいくかのようです。
    改善しようと努めても、
    なかなか思うように改善できずにいます。
    このような私たちの現実を
    真剣に受け止めているから、
    イエスさまが一体どんな人物なのか
    知りたがっている人たちの前で、
    「あなたがたは自分の罪のうちに
    死ぬことになる」とイエスさまは
    3度もこの言葉を語ったのでしょう。
    けれども、それは私たちに
    自分たちの生きる現実を突きつけ、
    自分たちでは解決不可能な罪の現実に
    絶望させるためではありませんでした。
    イエスさまの目的はむしろ、その逆でした。
    イエスさまこそ、罪の内に死へと向かう
    この世界とそこで生きる私たちに、
    命の光をもたらすために、
    神が私たちのもとに送ってくださった方です。
    それは、罪の赦しと
    新しい命に生きる希望の光です。
    イエスさまはその生涯をかけて、
    私たちに神の愛と憐れみの内に
    生きる道を示してくださいました。
    自分の利益ばかりを追い求めて、
    自分のことしか考えられない。
    自分を愛することで精一杯で、
    心をすり減らす毎日を送る私たちに、
    別の道があることを示してくださいました。
    それは、私たちが自分を愛するよりも先に、
    何よりも私たちが神に愛されていることから
    始まる生き方です。
    それは、神に愛されているように、
    共に生きる人たちに愛の手を差し伸べて、
    お互いに助け合って生きていく道です。
    イエスさまと一緒に歩むならば、
    そのような道が拓けてくると、
    イエスさまはご自分の歩みを通して、
    示してくださいました。
    またそれは、平和を追い求めて、
    平和を作っていく歩みです。
    イエスさまは立場や境遇によらず、
    人を分け隔てすることなく、
    多くの人たちと一緒に食事をしました。
    社会からのけ者にされている人たちと
    一緒に食事をすることで、
    周囲から後ろ指を指され、嘲られることがあっても、
    その場にいる一人ひとりを見つめて、
    彼らを大切にされました。
    そんな風に、少しずつ歩み寄って、
    平和な社会を作っていくことができると、
    イエスさまはご自分の歩みを通して、
    私たちに示してくださいました。
    イエス・キリストは、私たちといつも
    共に生きることを選んでくださった神です。
    罪のうちにあって、命をすり減らし、
    この命をお互いに傷つけ合ってしまう私たちが
    命の道を歩んで行くことができるように、
    私たちの命の日の限り、
    常に私たちの旅に伴ってくださる方です。
    私たちは毎週の礼拝を
    罪の悔い改めの祈りを
    祈ることから始めています。
    ですから、私たちは自分自身や
    教会の交わりやこの社会のあり方に、
    罪の影響が強くあることを
    強く実感しています。
    けれども、それ以上に、
    私たちに強く働きかけ、
    私たちを決して諦めず、
    離さないでいてくださる方が
    私たちと共にいてくださっています。
    私たちやこの世界が抱える罪よりも
    イエスさまを通して注がれる神の愛は、
    私たち一人ひとりに
    強く影響を与え続けるものです。
    どうか神の愛を私たちのもとに届けてくださる
    イエスさまと共に希望の内に
    みなさんがいつも歩み続けることが出来ますように。

週報より

  • 2025.02.16 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後にランチの会と年次教会総会を行います。
    ランチの会のメニューはセルフサービスのサンドイッチです。
    ランチの会は無料です(ランチ献金あり)。
    今回のランチの会は、礼拝堂の椅子の配置を祝会の形式にします。
    年次教会総会は、ランチの会の途中から始めます。
    報告関係から始めますので、食事をしながらお聞きください。
    総会は、教会員以外の方は議決権はありませんが、出席・発言はできます。
    やむを得ず欠席をされる方は、委任状のご提出をお願いします。
    委任状の書式はとくにありません。委任状は、LINEやメールでも提出可能です。

    ② 週報棚のある方に教会名簿を配布しました。ご確認ください。
    名簿は、教会内での連絡のみにご使用ください。

    ③ 4月からの係の礼拝の係やチームにご協力いただける方を募集しています。
    詳しくは受付テーブルにある申し込み用紙をご覧ください。
    係を担当してくださる方は申込用紙に記入して、
    投書箱(受付テーブルの上の白い箱)に入れてください。

    ④ 3月16日(日)の礼拝に東京基督教大学(TCU)の学生たちが来会予定です。
    昨年の夏、私たちの教会に10日間滞在して、教会の働きを手伝ってくださった
    TCUの「夏季伝道チーム」の学生たちが3月16日の礼拝に来てくださいます。
    当日はランチの会を予定しています。みなさま、どうぞご予定ください。


    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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