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朗読箇所

公現後第8主日

旧約 出エジプト記 3:13–15


13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名
これこそ、世々にわたしの呼び名。


新約 ヨハネによる福音書 8:48–59

◆アブラハムが生まれる前から「わたしはある」
48 ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、
49 イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。
50 わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。
51 はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」
52 ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。
53 わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」
54 イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。
55 あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。
56 あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」
57 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、
58 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
59 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

説教

主イエスを拒絶する世界

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    今からおよそ2000年ほど前、
    イエスさまが生きた時代に、
    もしも自分が生きていたならばと、
    みなさんは想像してみたことあるでしょうか。
    もしもイエスさまが
    人びとの間で暮らしていたあの時に、
    自分がその場に居たならば、
    一体どんな風にイエスさまの言葉に
    耳を傾けていたと思いますか。
    イエスさまの息づかい、言葉遣い、
    身振り手振りはどのように、
    私たちの目に映るのでしょうか。
    イエスさまが貧しい人たちや
    社会からのけ者にされている人たちと
    関わる姿を見て、
    どんな風に感じ、何を思うのでしょうか。
    そもそも、どのような距離から
    自分はイエスさまに関わるのでしょうか。
    もちろん、想像の域は越えないことですが、
    色々と考えてみると楽しそうです。


    ただ、ヨハネによる福音書が紹介する、
    イエスさまとユダヤの宗教指導者たちの
    間で交わされた、激しい議論を読むと、
    そのような楽しい想像も吹き飛んでしまいます。
    もしもそのような場にいたならば、
    イエスさまの主張も、
    ユダヤの宗教指導者たちの主張も、
    どちらももっともらしい主張だと感じて、
    右往左往してしまうかもしれません。
    果たしてどちらの言葉に
    真剣に耳を傾ければ良いのかと、
    混乱してしまう気がします。
    時間をかけてイエスさまと向き合って、
    イエスさまのことを知ろうと思ったとしても、
    周囲の人たちが口を揃えて
    イエスさまに対して
    非難の言葉を語り出すならば、
    やっぱり信頼するべきではないのかもなと
    思ったりしたかもしれません。
    実際、イエスさまが一体どのような人物なのか
    エルサレムの人びとにはわからず、
    イエスさまの評価を巡り、
    人びとが混乱し続けていた様子が
    福音書では描かれています。
    ですから、もし私たちがその場にいたならば、
    同じように混乱の渦に
    巻き込まれていたことでしょう。


    そのような混乱の渦を引き起こした
    ユダヤの宗教的指導者たちですが、
    初めのうちは、
    イエスさまがどんな人物なのかを知るために、
    純粋に疑問を投げかけています。
    イエスさまの活動や発言を知って、
    どんな人物なのか興味を持ったのでしょう。
    けれども、彼らは
    イエスさまと対話を重ねる中で、
    イエスさまのことを徐々に
    非難するようになりました。
    「この男は悪魔に取り憑かれている」
    と言うこともあれば、
    「お前はサマリア人だ」とも語り、
    イエスさまのことを嘲り、
    けなすこともありました。
    サマリア人と呼ばれる人たちは、
    ユダヤ人に嫌われていた人たちでした。
    サマリア人もユダヤ人と
    同じ神を信じていましたが、
    神を礼拝する場所がどこであるかに関して、
    意見が異なっていました。
    いつしか両者の間に争いが産まれ、
    確執が深まってきたその結果として、
    ユダヤ人とサマリア人は、
    お互いに敵意を抱くようになりました。
    ユダヤ人たちがサマリア人たちを毛嫌いし、
    差別的にサマリア人という名称を
    用いていることは、そのためです。
    当然、ユダヤの宗教指導者たちは、
    イエスさまがユダヤ人であるとわかった上で、
    イエスさまのことをサマリア人と呼びました。
    サマリア人への差別意識丸出しで、
    お前はサマリア人と同じ穴のムジナだと、
    イエスさまに向かって伝えているのです。


    ユダヤの宗教指導者たちの
    イエスさまに対する向き合い方は、
    そのような非難の言葉や
    敵対心で留まるものではありませんでした。
    最終的に、彼らの間に、
    イエスさまに対する殺意が
    沸き起こってきました。
    イエスさまの一連の発言が
    神を冒涜しているものとして
    受け止められたからです。
    イエスさまよりも2000年以上前に生きた
    アブラハムよりも前から自分はいたという言葉や、
    神と自分を同一視しているかのような、
    「わたしである」という発言は、
    ユダヤ人たちの怒りを買いました。
    もう議論の余地はない。
    やはりこの男は、悪霊に取りつかれているのだ。
    といったように、彼らが結論づけるには、
    十分な発言だったのでしょう。
    もちろん、イエスさまの言葉の真意を
    もっと時間をかけて
    探ることだってできたかもしれません。
    けれども、彼らはイエスさまを
    拒絶することを選びました。
    この決定的な拒絶の瞬間に至るまでに、
    彼らのイエスさまに対する発言は、
    徐々に厳しいものになっています。
    この男は悪霊に取りつかれている。
    神から送られてきた人物では決してない。
    最終的にはそんな結論に基づいて、
    イエスさまの言葉に耳を傾けています。
    結局のところ、自分たちの結論に合う形でしか、
    イエスさまの言葉を聞くことが
    できなくなっていたのではないでしょうか。


    そう考えると、ユダヤの宗教指導者たちが
    イエスさまを拒絶した原因は
    私たちにもよく理解できる
    問題であると気付かされます。
    だって、私たちだって、
    できれば自分の耳に心地よい言葉を
    聞いていたいものです。
    自分の価値観に合う考えを
    聞いていたいものです。
    考え方や生き方を変えることって、
    とても辛いことです。
    これまでの自分の考え方や生き方を
    否定することだって、
    必要になることでしょうから。
    自分の過ちを認めることになるでしょうから。
    このような反応が私たちにとって、
    とても当たり前のことだから、
    ヨハネはこの福音書の初めから、
    イエスさまがこの世界に受け入れられず、
    拒絶されることを書いていました。
    「言は自分のところへ来たが、
    民は言を受け入れなかった」(1:11)というように。


    私たちにとっての大きな希望は、
    イエスさまは拒絶されることを
    わかっていたのにも関わらず、
    それでも、イエスさまが私たちのもとに来て、
    私たちと共に生きることを
    選んでくださったということです。
    イエスさまは、ご自分を拒絶する世界に
    来てくださいました。
    それは、この世界を愛するためです。
    自己責任や個々の能力が
    過剰に評価されるこの社会において、
    何の条件もなく、私たちは神に愛されている。
    この世界のやり方とは、真逆の、
    見返りを求めない愛を伝えるために、
    神の愛と憐れみを伝えるために、
    イエスさまは来てくださいました。
    また、力に依存して
    自分の正義を貫こうとするこの世界に、
    イエスさまは来てくださいました。
    自分の強さではなく、弱さを用いて、
    共に生きる人たちと一緒に手を取り合い、
    平和と共生への道を私たちは模索できる。
    そのような希望を示すために、
    イエスさまは来てくださいました。
    そして、自分の都合の良いように、
    世界を暴力で塗り替えることが
    平然と行われているこの世界に、
    イエスさまは来てくださいました。
    権力や暴力、国家や一握りの人たちの都合によって、
    この世界の向かう方向性が決められる。
    そんな世界のあり方を拒絶するために、
    イエスさまは来てくださいました。
    イエスさまが私たちに示すのは、
    あらゆる人たちへの、
    とくに、蔑まれ、社会の辺境に立たされ、
    虐げられ、無視されている人たちへの
    憐れみに基づく世界のあり方です。
    イエスさまは私たちと共に生き、
    私たちにイエスさまの願いや方法を伝えるために、
    私たちのもとに来てくださいました。
    神の愛と憐れみに基づいてあり方を
    この世界に教えるために、
    私たちのもとに来てくださいました。


    拒絶されることをわかっていたとしても、
    イエスさまが私たちのもとに、
    この世界に来てくださったということは、
    私たちがイエスさまを拒絶してしまう
    この現実も含めて、
    イエスさまが私たちのことを受け止めて
    くださっているということです。
    何度拒絶されようとも、私たちを諦めずに、
    受け止め続けるイエスさまの愛や憐れみは、
    私たちにとって、どのような意味を持つのでしょうか。
    それは、私たちにとって、神との絆です。
    たとえどのような時も、
    私たちの側が拒絶してしまうような時であっても、
    生涯において、神が私たちを見放さないで、
    イエス・キリストにあって
    私たちと共にいてくださる。
    イエスさまの存在はまさに、
    神の側から伸ばされた、私たちと神とのこの絆が
    確かなものであることの証しです。
    またそれは、私たちにとって、
    共に生きるすべての人たちとの
    関係性を築いていく上での土台です。
    私たちは自分が受け取ってきたものを
    誰かに与えてしまいがちです。
    それは良いものばかりではなく、
    悪い性質のものも、です。
    私たちが良いものを周囲に分け与え、
    分かち合っていくためには、
    やはり良いものを受け取り続ける必要があります。
    自分の中から常に良いものが
    溢れ出てくると思えるほど、
    きっと誰もが自分のことに
    肯定的なわけはないでしょう。
    実際、妬みや嫉妬、悪意や敵意は
    いくらでも、私たちの心から湧き出て、
    行動へと移されていくのですから。
    神は、イエスさまを通して、
    私たちに良いものを与えてくださっています。
    神はイエスさまを通して、私たちを愛し、
    私たちに憐れみを注ぎ続けてくださっています。
    イエスさまからそのような良いものを
    いつも受け取っているから、
    私たちはその愛や憐れみに基づいて、
    共に生きる人たちに良いものを
    分かち合うことができるのではないでしょうか。
    ですから、イエスさまの存在を通して、神は、
    私たちと神との間に絆を作るだけでなく、
    私たち一人ひとりを結びつけてくださっています。
    この結びつきを更に強く、更に豊かで、
    喜びに溢れるものとするために、
    イエスさまは私たちのもとに来てくださいました。
    拒絶されることがわかっていても、
    私たち一人ひとりの命が新しくされ、
    神の愛に溢れ、
    平和の道を歩んでいくことができるように。
    そんな希望の未来を待ち望みながら、
    イエスさまが私たちと共に日々、
    歩んでくださっていることは
    私たちにとってとても大きな喜びですね。

週報より

  • 2025.03.02 週報より抜粋・要約

  • ① きょうの礼拝の中で転入会式を行います。
    日本基督教団下館教会からの推薦書に基づき、
    転会をされたのは川眞田(かわまた)千恵子さんです。心から歓迎いたします。
    日本基督教団の隠退教職であるお連れ合いの川眞田正先生とともに、
    主キリストにある交わりをよろしくお願いします。

    ② きょうから毎月第一日曜日の礼拝後に「賛美歌を歌う会」を行います。
    礼拝の後に、教会の皆さんに馴染みのある讃美歌を歌います(リクエスト歓迎)。

    ③ きょうの礼拝後、新旧役員合同で月例教会役員会を行います。
    新年度の役員との引き継ぎと新年度の役割決めをおこないます。
    教会役員のみなさまはよろしくお願いいたします。

    ④ 4月からの係の礼拝の係やチームにご協力いただける方を募集しています。
    受付の係を担当してくださる方がもう少しいてくださると助かります。

    ⑤ 明日は神学校の入学試験と教授会が行われます。
    受験予定の方々のために覚えてお祈りください。

    ⑥ 3月20日(木・祝)に小山市内の教会の子ども交流会が開催されます。
    10時から11時半に、小山総合公園で行います。参加費は無料です。
    人数把握のため、参加予定の方は16日までに基嗣牧師までお知らせください。

    ⑦ 3月7日(金)から9日(日)にナザレン教団の年会が開催されます。
    教会からは清野恵美子さんと牧師家族が出席予定です。
    9日の礼拝は、石田学先生の担当です。


    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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