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朗読箇所

復活節3主日

旧約 創世記 1:20–28


20 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
21 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。
22 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
23 夕べがあり、朝があった。第五の日である。
24 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。
25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。
26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」


新約 コロサイの信徒への手紙 1:15


15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

説教

人とは何者なのか

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    「人とは何者なのか」。
    きょう、私たちが一緒に読んだ詩編8篇で、
    詩人は素朴な疑問を投げかけます。
    この世界を見渡し、
    どこまでも広がる空や海などの
    とても美しく、息を呑むような景色を眺め、
    数え切れないほどたくさんの植物を見つめ、
    多種多様な生物の姿を知って、
    詩人は圧倒されています。
    この世界の、これらすべてのもの、
    そのひとつひとつを神がデザインし、
    神が造り、命を与えた。
    その事実に、詩人は圧倒されています。
    このような世界の中で
    神は私たち人間を造ってくださいました。
    そして、神によって造られたものの
    ひとつに過ぎない、私たち人間に
    神がその目を留め続けてくださっている。
    その事実に不思議さを覚えて、
    詩人は驚き、叫ばずにはいられませんでした。
    「人間とは一体、何者なのでしょうか。
    神よ、あなたが心に留めてくださるとは」と。


    ただ、私たちの生きる現代社会において、
    この言葉はまた違った意味で
    響いているように思えてなりません。
    現代において、私たち自身は、
    人間という存在を
    どのように見つめているでしょうか。
    最近は、国際政治において、
    自国優先の主張ばかりが目立つため、
    人間が自己中心的で、
    他者を顧みない存在であることを
    私たちは何度も突きつけられています。
    終わらない戦争や止まらない暴力は、
    私たち人間の暴力性を
    嫌と言うほど突きつけます。
    なぜ他者の命を奪うことを
    私たちは正当化できるのでしょうか。
    人間とは一体、何者なのでしょうか。
    近年、温暖化の影響で
    頻発する山火事や洪水は、
    神が造られたすべてのものと
    私たちが共に生きるこの地球を、
    私たち人類がどれほど
    回復不能なまでに傷つけているかを
    浮き彫りにしています。
    なぜ好き勝手にこの世界のあらゆる資源を
    私たちは貪り尽くせるのでしょうか。
    人間とは何者なのでしょうか。
    こんな風に、否定的な意味合いを込めて、
    私たちは人間存在について
    問いかけたくなります。
    タガが外れたように
    暴力の手を止められず、
    いつまでも搾取をやめられず、
    自己中心的で他者を顧みることができない。
    そんな私たち人間は、
    一体何者なのでしょうか。


    きょう、私たちは創世記1章を読みました。
    そこでは、人間の創造について描かれています。
    神がどのような意図を抱いて、
    人間を創造したのか。
    私たちはこの物語を通して
    少しばかり知ることができます。
    ですから、創世記1章は、
    私たち人間が一体何者であるのかを
    「思い出せ」と伝えているかのような
    物語ともいえます。


    創世記1章が伝える人間の創造において、
    とても特徴的な言葉は、
    人間が「神のかたち」に造られている
    ということでしょう。
    一体、何が神のかたちなのでしょう?
    私たち人間は、姿形はそれぞれ違い、
    話す言葉も、考えていることも、
    得意不得意も、生きる文化も違います。
    だから、神のかたちとは、見た目や
    目に見えてわかる言動や習慣などに
    現れるものではないのでしょう。
    じゃぁ、それならば、
    私たち誰もが持っている神のかたちって、
    果たして何なのでしょうか?
    これまで、様々な議論が
    積み重ねられてきました。
    理性、言葉を話す能力、
    神と向き合う能力などが、
    神のかたちと解釈されてきました。
    けれども、どれにも問題があります。
    だって、もしもそういった
    能力が欠如していならば、
    不完全な人間として
    扱われてしまうことになります。
    では、神のかたちと創世記が伝える、
    私たち人間とは、一体何者なのでしょうか。


    この「神のかたち」という
    フレーズの意味を知るための手がかりは、
    旧約聖書が生み出された
    古代の文化にあります。
    古代イスラエルの人びとに
    大きな影響を与えた、
    古代エジプトやメソポタミアにおいて、
    神のかたちは、王さまや王族など、
    ほんの一握りの人びとに対して
    使われた言葉でした。
    王こそが、神のかたちを持ち、
    特別な存在であり、
    すべてのことを行う権威を持つ。
    そのような理解の下で、
    神のかたちという言葉は、
    古代世界において使われていました。


    創世記では、どうでしょうか?
    創世記が神に似せて造られたと伝えるのは、
    どのような人間でしょうか?
    社会的な地位を持つ人?
    知識に溢れている人?
    戦いを勝利へと導く力強い人?
    それとも、重要な働きをしている人?
    いいえ、違いますね。
    ほんの一握りの人たちのみを
    「神のかたち」と呼ぶことを
    創世記は拒否しています。
    人類全体、誰もが、
    神のかたちを持っている。
    誰もが特別で、尊い存在なんだと伝えています。
    その上、どのような点においても、
    人間の間に、優劣をつけようとはしていません。
    古代世界において、
    絶対的なものであった、
    社会的な身分さえも、
    そこでは意味を持ちません。
    奴隷であっても、犯罪者であっても、
    社会の片隅に追いやられていても、
    神のかたちを持っています。
    ただ、あなたが生きて、そこにいる。
    それが尊くて、とても美しい。
    あなたも、あなたの隣にいる人も、
    あなたの周囲にいるすべての人も、
    神のかたちに似せて造られた、
    とても素敵な存在なんだ。
    この世界のすべての人が、
    神のかたちを持っている。
    そんな、私たち一人ひとりの存在のすべてを
    肯定するような言葉として、
    神のかたちという言葉が使われています。


    ただ、手放しで喜べないのは、
    人間が神のかたちに
    似せて造られたことを伝えるこの言葉が、
    人間の性別を真っ二つに
    規定しているように見えることです。
    たしかに、人間の性とは、男女のふたつに
    簡単に分けられるものではないと考える、
    現代の私たちから見れば、
    創世記のこの言葉は、問題のある言葉です。
    けれども、古代世界の中では、
    画期的な言葉でした。
    男性が社会を主導することが
    当たり前だった世界で、
    男女を同列に、等しく扱っているからです。
    ふたつの性別のみしか考慮していないという、
    時代的、文化的な制約は確かにあります。
    けれども、それを除けば、
    人間が神のかたちに似せて造られた
    と伝える、創世記1章の言葉は、
    誰一人欠かすことなく、
    すべての人のうちに尊厳を認める、
    驚くべき宣言だといえるでしょう。


    ただ、創世記が、
    神のかたちに似せて造られた
    と伝える際に、男性と女性を並べたのは、
    単に男女を等しく取り扱い、
    同等の位置に置くことだけが
    目的ではなかったと思います。
    旧約聖書が記された言語である
    ヘブライ語には、
    ふたつの極を提示することによって、
    その両極の間にある
    一つ一つのすべてのものを含めて、
    全体を示す表現方法があります。
    たとえば、神が天と地を造ったというとき、
    天と地というふたつの両極を
    創世記は提示しています。
    それは、天から地に至るまでの
    すべてのものを造ったことを伝えるためです。
    天と地という、両極を示すことによって、
    その間にあるものすべてを
    神が造ったと伝えています。
    神が人間を神のかたちに似せて造った
    というときも同じです。
    男性と女性という両極を示すことによって、
    その間にある、あらゆるすべての性、
    すべての世代、
    すべての立場、
    すべての民族を
    そこに含めているのです。
    誰一人として、欠けてはいけない。
    すべての人が神のかたちをもっているんだ。
    だからどうか、思い出してください。
    そんな風に、創世記の物語を通して、
    神は私たちに語りかけておられます。


    このように、神のかたちという言葉を通して、
    創世記は私たち一人ひとりの存在が
    尊いものだと伝えています。
    ただ、私たちがその事実を誇るためだけに、
    神は私たちを神のかたちに似せて
    造ったのでしょうか?
    創世記は、私たち人間の
    決して揺るがない、
    何者にも左右されない、
    尊い価値を認めたその上で、
    私たちが誰かとの関係の中に
    生きていることを伝えています。
    それは、わたしたち人間と神との
    関係だけではありません。
    神は人間を造ったと言わず、
    男と女に人間を造ったと伝えています。
    それは、自分とは異なる他者との
    関係の中で生きることが、
    私たち人間にとって自然なことを
    伝えているかのようです。
    孤独は人間の
    自然なあり方ではありません。
    同じような人ばかりが集まることも、また、
    人間の自然な姿でもありません。
    異なる他者と手を取り合い、
    語り合って生きる。
    そんな関係性の中を生きるようにと、
    私たちは招かれています。


    そして、この世界を治めるようにと
    創世記は伝えます。
    それは、この世界のあらゆるものから、
    好き放題奪い、際限なく搾取することを
    肯定するような言葉ではありません。
    それは、神の創造の働きを
    引き継いでいくようなものです。
    この世界が更に命で溢れ、
    生き生きとしていくことを目指して、
    この世界で生きる。
    神が創造したこの世界が
    さらに命の光で溢れる、
    そんな姿を目指して、この世界で
    神と、隣人と、
    そしてその他のすべての被造物と
    共に生きるようにと、
    神は私たちを造られました。
    私たちに、そして私たちが生きるこの世界に、
    神のそのような願いは、
    どれほど実現できているのでしょうか?


    きっと、私たちに与えられている神のかたちは
    様々な形で傷ついているのでしょう。
    神との関係も、共に生きる人たちとの関係も、
    この世界のあらゆる被造物との関係も、
    決して傷ついていない完全なものだなどと、
    誰にも言えません。
    現に、争いがあり、
    差別があり、搾取があり、
    この地球の悲鳴のように、
    異常気象があるからです。
    一体、どうすれば神のかたちに
    似せて造られた私たちが、
    神が望む、豊かで、喜びと命に溢れる
    関係性をこの世界の中で築きながら
    歩んでいくことができるのでしょうか。


    そのような無理難題を突きつけられ、
    解決策を持たない私たちを
    神は決して放っておきませんでした。
    きょうは新約聖書から、
    コロサイの信徒への手紙を読みました。
    著者は、イエス・キリストのうちにこそ、
    神のかたちが完全に現れている
    と伝えています。
    ですから、神が私たちのもとに送り、
    私たちと共に歩んでくださる、
    イエスさまのうちにこそ、
    私たちは神のかたちを
    見出すことができます。
    私たちがイエスさまを見つめ、
    イエスさまと共に生きることを通して、
    神は、私たちの神のかたちを癒やし、
    命の息を私たちの日常の中に
    届けようとしておられるのです。
    私たちが関わりを持つ、あらゆる関係性は、
    どれも決して完全なものではありません。
    不完全で、傷つきやすいものです。
    だからこそ、私たちには
    イエスさまが必要です。
    私たちと共に生き、
    神のかたちを持つ者が
    どのように歩むべきかを指し示し、
    私たちが生きるこの世界の関係性の中に、
    橋をかけ、その関係をつなぎとめ、
    その関係性の中に、回復をもたらしてくださる。
    イエスさまはそのような方です。
    イエスさまが共に歩んでくださるから、
    私たちは希望のうちに、
    この世界で私たちが築くあらゆる関係のうちに
    命がもたらされることを諦めずに、
    歩んでいくことができます。
    神のかたちを持つイエスさまが
    私たちと共に歩んでくださるから、
    私たちはいつも忘れないでいられます。
    人とは一体、何者であるのかを。
    私という存在が一体何者であるのかを。
    そして、私たちと共に生きる人たちが、
    神にとってかけがえのない、
    神のかたちに造られた、
    尊い存在である、ということを。
    人の命が平等なものとして扱われず、
    尊厳があまりにも簡単に踏みにじられる。
    争いの音が鳴り止まない。
    人とは一体何者であるのかを、
    あまりにも簡単に忘れてしまう。
    そのような世界に
    私たちは生きています。
    だからこそ、私たちは
    神のかたちをもつイエスさまを見つめ、
    神が語りかけてくださる言葉に耳を傾けます。
    そして、思い出し続けましょう。
    私たち人間とは、何者であるのかを。

週報より

  • 2025.05.04 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは、礼拝後に賛美歌を歌う会を予定しています。

    ② 5月は神学校月間です。
    将来牧師として教会に遣わされる方々への神学教育を行っている、
    ナザレン神学校のためにお祈りと献金をお願いします。
    神学校には現在、4名の神学生(1年生1名、2年生2名、4年生1名)と、
    2名の科目履修生が在籍し、学んでいます。
    受付テーブルの上に置いてある、献金袋をご利用ください。

    ③ ジグソーパズル・カフェのお知らせ
    5月17日(土)、午前10時から午後5時に教会の礼拝堂を開放します。
    ジグソーパズルやボードゲーム、お茶菓子などを用意してお待ちしています。
    いつでもお好きなお時間に教会に来て、お楽しみください。

    ④ 教会あら探し会(仮)のお知らせ
    教会の不用品や修理箇所、整理したい場所などを「あら探し」し、
    教会に置いてあったら良いものなどを提案し合う会を
    5月18日(日)の礼拝後に開催します。

    ⑤ 5月24日(土)に井戸湿原へハイキングを予定しています(小雨決行)。
    詳細は決まり次第お知らせしますが、お弁当を持参して教会に集合の予定です。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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