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朗読箇所

復活節5主日

旧約 創世記 1:31–2:3


31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
2篇
1 天地万物は完成された。
2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。


マルコによる福音書 2:23–28

◆安息日に麦の穂を摘む
23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。
26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
28 だから、人の子は安息日の主でもある。」

説教

信頼と抵抗の日

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    「タイパ」という言葉を
    耳にするようになってから、
    どれだけ経ったでしょうか。
    かけた時間に対して、
    どれだけの効果があり、
    どれだけの成果や満足感を得られたのかを
    考える際に使われる、
    タイム・パフォーマンス
    という和製英語の略語です。
    タイパという言葉が登場する以前は、
    コスパ、コスト・パフォーマンスが
    よく使われていましたね。
    支払った金額に対して、
    どれだけの満足度を得られるのか
    という意味の言葉です。
    物価が上がり続ける近年において、
    私たちにとって、コスパの良さは
    相変わらず大切なものであり続けています。
    けれども、そのような中で、
    タイパという言葉が聞こえてくることも、
    とても自然なことに感じます。
    だって、私たち一人ひとりの時間は、
    有限で大切なものだからです。
    それは、きっと、この場にいる誰もが
    同意することだと思います。


    現代社会は、とても目まぐるしい社会です。
    情報は常に飛び交っているため、
    何を掴めば良いかわからないこともあります。
    だから、怒涛に押し寄せてくる情報の波の中で、
    何とか必要な情報を掴み取り、
    その荒波の中を生き抜いていくために、
    有限である時間を最大限に活用できる方法を
    私たちは重視します。
    YouTubeの動画は1.5倍速で視聴し、
    できるだけ無駄を省いて情報を得ます。
    会議は極力、現地へは行かず、
    オンラインで済ませたくなります。
    仕事はできる限り
    効率化したいと思ってしまいます。
    AIに仕事の一部をお願いしたり、
    相談事をしたりするようにもなりました。
    ただ、そういったことによって手にした時間を
    自由に、ゆっくりと過ごせたら良いのですが、
    現実は違っています。
    効率を重視して手にした時間に、
    更に別のものを
    詰め込んでしまうことがあります。
    もちろん、時間を大切にすることや、
    効率を重視することは
    悪いことではありません。
    けれども、時間を大切にするあまり、
    時間を確保するために、
    疲れて切ってしまっている。
    現代社会のあり方には、
    そんなことを感じずにはいられません。


    きょう読んだ創世記の言葉は、
    そんな現代社会に対して、
    挑戦的にも思える内容だと思います。
    創世記は7日間という枠組みを用いて、
    神がこの世界を美しく、良いものとして造り、
    この世界を祝福していると証言します。
    その際、神の創造の働きが
    終わるのは、6日目でした。
    7日目に神は休みます。
    ヘブライ語では、「止まる」
    という意味の言葉を用いて、
    神の休息が伝えられています。
    つまり、神が疲れ切っていたから、
    7日目に身体を休めたという意味で、
    神の休息が語られているわけではありません。
    神が、手を止めて、立ち止まったのは、
    世界の創造の働きが完成したからです。
    でも、それなのに、
    6日目に完成したとは宣言されません。
    神が立ち止まった、7日目に
    世界の創造の完成が宣言されています。
    それは、神によって造られた
    この世界の良さや美しさを
    神ご自身が味わい、喜ぶためでした。
    自らの働きの結果であるこの世界を見つめ、
    そこに広がるすべての命を喜ぶために、
    神は手を止め、立ち止まることを選びました。


    旧約聖書は、この出来事を
    安息日と呼ばれる日の
    起源として伝えています。
    つまり、神が立ち止まったから、
    人間も立ち止まる必要がある日だ、と。
    それはまるで、七日に一度、
    手を止めて、立ち止まるという、
    定期的なリズムを
    私たちに教えているかのようです。
    現代に生きる私たちにとって、
    これはとても挑戦的なリズムです。
    というのも、効率を重視して、
    時間の質を保ち、
    必要な時間を捻出するために
    日々、奮闘する私たちに、
    一度、立ち止まるように伝えるからです。
    立ち止まってしまっては、
    損失が生まれてしまう。
    だから、なかなか立ち止まることができない。
    動き続け、目覚め続けるこの世界の中で、
    立ち止まって、その損失を選ぶようにと、
    このリズムは伝えているからです。
    タイパ重視のリズムの作り方は、
    現代社会で生きる私たちが
    慣れきっているリズムです。
    だから、それは、たとえ私たちが
    自分の仕事から離れて、
    休息を取っていたとしても、
    私たちを支配している
    リズムだといえるでしょう。
    時間は相変わらず急速に流れます。
    密度の高い時間でないと、満足できません。
    できる限り無駄を省かないと気が済みません。
    そんな私たちに、
    神は立ち止まってごらんと、
    促しているかのようです。
    忙しない時間の波に揉まれて、
    時々、自分が一体、どこにいるのか
    わからなくなることがあります。
    そんな私たちに、神は一度立ち止まって、
    時間を自分自身の力で
    支配しようとすることを
    やめてみるようにと語りかけます。
    立ち止まって、一緒に、
    あなたが今生きている、この世界を
    神が造られた良い世界を味わいませんか。
    あっという間に過ぎ去っていく、
    あなたのこの世界での働きの結果を
    一度立ち止まって、
    ゆっくりと味わいませんか。
    何よりも、神によって造られた、
    あなた自身という良い存在を
    一緒に喜びませんか。
    あなた自身と共に生きる人たちに、
    尊い命が与えられていることを
    立ち止まって一緒に喜びませんか。
    天地創造の物語において、
    7日目に神が立ち止まったことを通して、
    神はそのように私たちに
    語りかけているかのようです。


    ところで、日本のキリスト教会は、
    「聖日厳守」という言葉と、
    安息日を結びつけて考えてきました。
    「神が7日目に休まれたのだから、
    安息日を守りなさい」。
    「キリストを信じる者にとって、
    日曜日の礼拝こそが安息日だから、
    礼拝は休まずに来なさい」
    といったような主張がなされてきました。
    人びとのライフスタイルや
    働き方の多様性が無視され、
    まるで破ることの決して許されない
    戒律のようにそれは伝えられてきました。
    たしかに、私たちが毎週守っている、
    日曜日の礼拝は、安息日の持つ
    豊かな意味を引き継いでいます。
    この世界の様々な声に晒され、
    傷つき、命をすり減らしてきた私たちに、
    旧約聖書で描かれている安息日は、
    立ち止まって、神が造られた
    この世界を見つめるようにと促します。
    立ち止まって、自分自身や
    この世界の良さを思い出し、
    与えられているこの命を
    一緒に喜ぼうと呼びかけます。
    私たちが毎週守る礼拝だって、
    同じ意味合いを持っています。
    けれども、聖日厳守と声高に叫ぶなら、
    安息日が持つその意味を
    途端に失ってしまうことでしょう。
    命を喜ぶどころか、
    義務感によって人の心を縛り付け、
    安息日の規定を守ることにのみ、
    人びとの心を向けてしまうためです。
    厳しい決まり事として伝えられる「聖日厳守」は、
    安息日が人のためにある(マルコ3:27)
    と伝えた、イエスさまの言葉とも、
    対立するような習慣だったと言えます。
    幸いなことに、私たちの教会は、
    「聖日厳守」という言葉が
    声高に叫ばれることは
    これまでありませんでした。
    また、私自身もそのつもりはありません。
    とはいえ、安息日に関する
    信仰的な価値や良い遺産を
    私たちがまったく受け継いでいない
    というわけではありません。
    むしろ、「聖日厳守」という言葉によって、
    旧約聖書が伝える安息日の理解が
    歪められてしまったからこそ、
    その意味を積極的に
    受け止めたいと思うのです。
    私たちは礼拝を通して、
    神の前で立ち止まります。
    自分のために時間を用いたり、
    急ぎ足で時間を消費する、
    私たちの生活のリズムから、
    礼拝を通して、一旦、離れます。
    そして、一度立ち止まることを通して、
    神が私たちを招いておられる、
    時間の流れの中に、
    私たちはその身を置きます。
    立ち止まって、ゆっくりと呼吸し、
    時間の流れを噛み締めます。
    立ち止まって、少しずつ、
    この世界や私たちの日常の中で
    私たちが目に留められなかったものや
    見過ごしてきてしまったものに目を向けます。
    私たちが必死に動かなくても、
    この世界を造った神は、
    この世界を治めておられます。
    私たちが必死に動かなくても、
    私たちは神の守りの中に
    いつも置かれていています。
    ですから、私たちにとって、
    神の前で立ち止まるきょう、この日は、
    神への信頼をゆっくりと育む日です。
    そして、タイパを追求することが
    当たり前であったり、
    家族や大切な人たちとの時間を
    何とか確保しようと、奔走し、
    忙しない時間を過ごすことに
    慣れきってしまっている私たちにとって、
    きょうこの日は、この世界の当たり前への
    抵抗となる日です。
    立ち止まる。
    それは、簡単なようで、
    難しく、忘れてしまいやすことです。
    だから、神はいつも私たちに語りかけ、
    私たちを促してくださっています。
    立ち止まろう。
    立ち止まって、一緒にこの世界を見つめよう。
    立ち止まって、一緒に喜ぼう。
    どうか、そんな神の声に
    耳を傾けることができますように。

週報より

  • 2025.05.11 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に、あら探し会(仮)を開催します。
    教会の不用品や修理箇所、整理したい場所などを「あら探し」し、
    教会に置いてあったら良いものなどを提案し合う時間をもちます。
    横の部屋や会堂後方のテーブルの上に模造紙とペンを置いておきます。
    模造紙に自由に意見やアイディアを書きながら、
    次週のクリーンアップデイ(大掃除)で取り組むことを一緒に考えましょう。
    ティータイムの時間から始めますので、どなたでもご参加ください。

    ② 5月24日(土)に井戸湿原へハイキングを予定しています(小雨決行)。
    お弁当を持参して、午前7時に教会集合の予定です。
    参加をご希望の方は、受付テーブルの上の用紙にご記名をお願いします。

    ③ 次週、25日(日)は礼拝後にランチの会とクリーンアップデイを予定しています。
    ランチの会は、セルフサービスのサンドイッチの予定です。
    ランチの後に、教会の清掃や片付けをします。
    みなさまのご協力よろしくお願いいたします。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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