小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ   >   礼拝説教・週報一覧   >  探し続ける神

朗読箇所

三位一体の主日

旧約 創世記 3:1–13

◆蛇の誘惑
1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」


ルカによる福音書 15:1–10

◆「見失った羊」のたとえ
1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
◆「無くした銀貨」のたとえ
8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

説教

探し続ける神

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    みなさんには、携帯電話やスマホを
    なくした経験はあるでしょうか?
    私は2度ほどあります。
    1度目は都内の電車の中で。
    そして2度目は6年前に、フィリピンで。
    どちらも自分の不注意で
    落としてしまったのですが、
    なかなか精神的に
    ダメージの大きい出来事でした。
    現代に生きる私たちにとって、
    スマホや携帯電話は、
    良くも悪くもとても重要な生活のツールです。
    この中にはいくつもの
    大切な情報が入っていますし、
    連絡を取るのも、何かを買うのも、
    勉強や調べ物をするのにも、
    暇つぶしをするのにも欠かせません。
    最近では、運転免許証や
    マイナンバーカードなど、
    身分証を入れられるようにさえなってきました。
    重要度は増すばかりです。
    だからこそ、このツールをなくすと、
    精神的に落ち込むばかりでなく、
    経済的にも、社会的にも、
    様々な不利益を被ることになりかねません。
    幸い、私がスマホをなくしたとき、
    2度とも無事に私の手元に戻ってきたので、
    様々な不利益や面倒ごとから
    私は守られました。
    あの日、私は、なくしたスマホが
    今どこにあるのかを探す機能を使用して、
    自分のスマホのおおよその場所を把握しました。
    そして、思いつく限りの行動をして、
    何とか自分の手元に、スマホが返ってきました。
    ただ、そのような結果を得られたのは、
    自分の努力の結果や、
    現代の技術のおかげではありません。
    何よりも、スマホを拾ってくださった方が
    とても親切な方だったからこそ、
    あのとき、私の手元にスマホが
    戻ってきたのだと思います。
    結局のところ、
    どれだけ技術が進歩しても、
    なくしたものを見つけ出して、
    手元に取り戻すためには、
    周囲の人の親切や善意が
    どうしても必要になります。
    もちろん、どれだけ技術が進歩しても、
    どれだけ周りの人が協力してくれたとしても、
    手元に戻ってこないことだってあります。
    落としたタイミングで故障したり、
    破損することだって
    十分有り得るのですから。
    ですから、手放し、失ったものが、
    手元に戻ってこないことがあるのは当然です。
    それがスマホや携帯ではなかったとしても、
    ここにいるみなさんもきっと、
    これまで様々な大切なものをなくし、取り戻し、
    また時に手放し、失ってきたかと思います。


    先ほど私たちは、創世記3章に描かれている、
    エデンの園の物語に一緒に耳を傾けました。
    そこで神は、スマホよりも
    はるかに大切なものを失い、
    探し回っています。
    そう、神との約束を破り、
    神の元から離れ、隠れている人間たちを
    神は探し続けました。
    もちろん、神は人間たちが
    どこにいるのかはわかっています。
    けれど、神は彼らに向かって呼びかけます。
    「どこにいるのか」(9節)。
    あなたは一体どこにいるのか。
    それは、過ちを犯した人間を
    呼び出して、問い詰め、
    厳しい罰を与えるためではありません。
    隠れる人間たちを無理やり引っ張り出して、
    懲らしめるために、
    神は人間を探しているのでもありません。
    そうではなく、人間たちとの間に、
    また関係を築き直すために、
    神は人間を探します。
    神の側から呼びかけて、歩み寄り、
    人間たちが神のこの呼びかけに
    自ら進んで応えるのを待っています。


    ところで、一体、神と人間たちの間に
    何が起こってしまったのでしょうか。
    なぜ神は隠れている人間たちを
    探さなければいけなかったのでしょうか。
    それは神が食べてはいけないと告げた、
    善悪の知識の木から
    実を手に取って食べたことにありました。
    園のどの木からでも食べては良いけれども、
    善悪の知識の木からだけは
    決して食べてはいけない。
    これが神が人間たちに告げたことでした。
    けれども、その理由について、
    神は沈黙しています。
    だから、エデンの園で生きた人たちは、
    食べてはいけないと言われた、
    あの善悪の知識の木を見つめるたびに、
    神が自分たちに語りかけた言葉の意味を
    考え続けなければいけませんでした。
    単に、神が人間に
    良いものを渡さないためなのか。
    それとも、食べてはいけない実がなる木を
    人間が食べない選択をし続けることが、
    人間にとって良いことだと、
    神が考えたためなのか。
    このように、この善悪の知識の木の存在は、
    神への信頼や、神との関係性を
    園で暮らす人間たちに日々、
    問いかけてくるようなものでした。
    善悪の知識の木は、
    園の中央に生えていました。
    そのため、人はその木に、
    いつでも自由に手を伸ばすことができました。
    また、その木は食べることを許されていた、
    命の木のそばに生えていたため、
    その気になれば、いつでも食べられそうです。
    だからこそ、善悪の知識の木は、
    まさに神から人間に与えられた、
    自由の保証でした。
    神に喜んで従う自由も、
    神の声を聞かずに、神に背を向ける
    そんな自由さえも
    人間には与えられていました。
    ですから、エデンの園で生きる人々にとって、
    善悪の知識の木に手を伸ばさないことは、
    神によって与えられた自由の中で、
    神を信頼し続けることを
    いつも選び取ることの証しでした。


    そんな神への信頼が
    揺らぐ瞬間が
    この物語の中では描かれています。
    ヘビの存在を通して、
    神への不信感や知恵の木に対する憧れが、
    そして神のような知恵を得たいという願いが、
    少しずつ人間たちの間で育ってきます。
    キリスト教の伝統の中では、
    ヘビは悪魔であると長い間、
    解釈されてきました。
    けれども、創世記の物語は、
    ヘビを悪であるとは表現していません。
    また、ヘビは神によって造られた
    単なる被造物のひとつに過ぎないと、
    この物語は伝えています。
    ですから、この物語は、
    悪魔に誘惑されたから、
    人間は神に背いてしまった
    ということを伝えてはいません。
    ヘビの存在は、
    人間が神のもとを離れたことの原因を
    伝えているのではありません。
    あくまで、ヘビの存在は
    そのきっかけに過ぎませんでした。


    むしろ、根本的な問題は、
    人間が善悪の知識の木に手を伸ばし、
    神のようになることを
    願ったことにあります。
    それはまさに、人間が神への信頼よりも、
    善悪の知識の木に手を伸ばすことによって、
    神のような知恵を獲得し、
    知恵を持つ自分自身を信頼することを
    選び取った瞬間でした。
    神に知恵を求めることや、
    神との関係を大切にすることをやめて、
    「自分でできる」、
    「自分のやりたいようにしたい」
    といった願いを優先して生きることを
    彼らが選び取った瞬間でした。


    神のように善悪を判断することができる。
    一見、それはとても
    素晴らしいことのように思えます。
    もしもそんな風になれるならば、
    もっと世界は平和であっても
    良いように思えます。
    でも、それは平和や秩序を
    この世界にもたらすよりも、
    争いや無秩序をこの世界に
    もたらしてしまっています。
    それもそのはずです。
    だって、人間誰もが、
    自分を中心に置いたならば、
    当然のように、その主張はぶつかり合います。
    私たちは神に造られた者に過ぎないのだから、
    神のようにはなれません。
    神のようにすべてのことを
    適切に判断することもできません。
    何が善で、何が悪であるか
    適切に判断したいと願っても、
    各々の立場によって、
    正しさが変わってしまいます。
    戦いにおいて、勝利した方が正しく、
    負けた方が悪とされてしまいます。
    多数派の意見が正しく、
    少数者は口をつむぐばかりです。
    ある人にとっての
    安定や平和、秩序や正義は、
    誰かにとっての不安定や無秩序、
    そして不正義や悪です。
    きっと、そういったことは、
    この世界を見渡せば
    いくらでもわかります。
    自分を中心にして
    この世界の平和を望んでも、
    自分とは異なる誰かが
    いつもどこかで叫び声を上げています。
    だから、本来、私たちは
    神のような知恵など持てません。


    そのような私たち人間の現実を
    伝えるかのように、
    人間が神のような知恵を持つために
    善悪の知識の木に手を伸ばし、
    自らを世界の中心に据えようとした時、
    園の中に無秩序が訪れます。
    人間たちは、お互いに
    罪をなすりつけ合いました。
    「この人が悪いんです。」
    「この人が私に禁じられた、
    あの善悪の知識の木から
    その実を渡したんです。」
    人間同士の関係性が
    崩れていく音が聞こえてきます。
    また、神を悪者にもします。
    「あなたが私に与えてくださった、
    このパートナーがいけないんです」と、
    神に向かって非難の声を上げます。
    エデンの園にいた人々は、
    善悪の知識の木に手を伸ばし、
    神のような知恵を手にし、
    自分自身を世界の中心に置きました。
    そうやって、彼らは自分を中心にして、
    この世界の秩序を維持しようとしました。
    けれども、その結果は、
    期待していたものとは違いました。
    人間たちはお互いに不信感を持ち、
    神との関係を傷つけてしまいました。
    平和や秩序ではなく、
    争いや混沌が彼らの周囲に、
    そして世界に広がっていったのです。


    ところで、この物語は、
    アダムとエバの物語として知られています。
    けれども、創世記3章は
    この物語に登場する人々に、
    固有名詞を与えていません。
    あくまでも、人類の物語として、
    この物語を紹介しています。
    つまり、創世記は、
    過去に生きた人たちの失敗談として、
    この物語を伝えようとしてはいません。
    むしろ、これこそが人類の物語。
    これこそが、人類と神の関係を
    象徴するような物語として、
    この物語を伝えています。
    たしかに、その通りです。
    この物語が伝えるように、
    私たちは自分のやり方を好みます。
    神を中心に生きるよりも、
    自分たちを中心にして、
    神ではなく、自分の力に頼って、
    自分の周囲の世界を
    動かそうとしてしまいます。
    他の人をできる限り
    利用しようとしてしまいます。
    けれども、自分を中心にしたいがために、
    混沌が訪れ、無秩序が広がってしまいます。
    悲しいほどに、私たちが生きる世界は、
    それが当たり前の世界です。


    ただ、創世記の物語が、
    そんな私たちの世界の悲しい現実だけを
    映し出しているのかというと、違います。
    このような私たちの世界に、
    神が関わり続けておられることを
    この物語は伝えています。
    そう、神の歩む音が聞こえてきます。
    神から離れた人間たちのもとに、
    神が歩み寄って来ています。
    そして、神が呼びかけ、
    どこにいるのかと探しています。
    神への信頼を失い、
    神との関係を傷つけ、
    人間同士で、愛する人たちと
    傷つけ合っている。
    そんな私たちに神が呼びかけ、
    神は私たちのことを探しています。
    また、関係性を築き直すために。
    傷ついたこの世界を癒やし、
    争い合っている人びとを
    結び合わせるために。
    神が近づき、「どこにいるのか」と
    呼びかけ、探し続けています。


    私たちは、昨年12月から、
    主イエスの誕生をお祝いし、
    イエスさまのその生涯を思い起す日々を
    過ごしてきました。
    天から降り、人となって、
    私たちと共に生きてくださった
    神の子イエス・キリストこそ、
    「どこにいるのか?」と呼びかける、
    絶え間なく響く神の声です。
    そして、そんなイエスさまこそ、
    諦めずに、私たちを探し出し、
    私たち一人ひとりとの間に、
    関わりを持とうとする、神の姿です。
    「どこにいるのか?」と探し続けた神は、
    人となり、私たちを追いかけてきました。
    それは、私たちの生涯においてだけでなく、
    私たちの死においても、です。
    イエスさまを死者の中から復活させた神は、
    死を打ち破って、私たちを追いかけ、
    今もなお、私たちを探し求める方です。
    そして神は、私たちに聖霊を与え、
    常に私たちと共にいようと
    してくださっています。
    何度私たちが神のもとから離れていこうとも、
    何度私たちが神から隠れようとも、
    父、子、聖霊の三位一体である神は、
    私たちを探し続け、私たちと共に歩み、
    私たちと関わりを持とうとしています。
    それは、私たちの弱さや罪深さを追求し、
    私たちを責め立てるためではありません。
    私たちの傷ついた部分を癒やすためです。
    綻びの多い、私たち人間同士の関係の間に、
    神が立ち、神がその結び目となって、
    この世界を癒すためです。


    実に、私たちの傷ついた命を癒やし、
    弱り果てた心を励まし、
    希望のないところに、
    希望をもたらすために、
    神は私たちのことを
    今も探し続けてくださっています。
    「どこにいるのか」と。
    だから、私たちはいつも、
    そんな神の声に耳を澄ましながら、
    神の声に応えたいと思うのです。
    そこから、自分を中心にして生きること、
    自分の知恵だけに頼ることを
    私たちは手放すことが出来るからです。
    そして、神の知恵を求め、
    神に頼る場所から、
    共に生きる人たちといがみ合うのではなく、
    手を取り合える場所から、
    この世界の綻びや混沌が
    主キリストにあって
    回復へと向かっていくことを
    私たちは信じているからです。
    「どこにいるのか」と呼びかけ、
    私たちを探し続ける、
    そんな神の声を聞いた私たちがいる場所から、
    神はこの世界に命をもたらそうとしています。
    どうか、自分を中心に置くのではなく、
    共に生きる人たちと手を取り合いながら、
    神の知恵にこそ頼って、
    みなさんがこれからも
    神と共に歩み続けることができますように。
    そして、神の声に
    耳を傾けるみなさんを通して、
    少しずつこの世界に混沌や無秩序ではなく、
    命が広がっていきますように。

週報より

  • 2025.06.15 週報より抜粋・要約

  • ① 7月の第一日曜日(7月6日)に、自宅〜教会間の送迎を試験的に行います。
    将来的に、教会〜自宅間の送迎を定期的に行えるようにと願っています。
    どのような形で実現可能なのかを探るため、7月の最初の日曜日に、
    送迎を希望される方々の自宅〜教会間の送迎を行ってみたいと思います。
    ご利用を希望される方は、牧師までお気軽にお声がけください。

    ② 夏季献金のお願い
    牧師の夏の手当とピアノの調律のための献金です。
    受付テーブルに置いてある献金袋をご利用ください。

    ③ 外壁塗装のための献金へのご協力のお願い
    私たちの教会はおよそ10年ごとに礼拝堂の外壁塗装を行っています。
    礼拝堂を長く使用するために、必要な定期的なメンテナンスです。
    ご協力いただける方は、受付テーブルの上にある献金袋をご使用ください。
    目標金額は140万円です。

    ④ (礼拝の報告では読み上げません) 7月6日の礼拝について
    7月6日(日)は、宣教師の方を説教者としてお招きしての礼拝となります。
    都合により、7月6日は通常通りの礼拝配信を行えません。
    当日は、リンクを知っている方のみ視聴できる方法での配信となります。
    詳しくは基嗣牧師までお問い合わせください。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

フッター画像