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朗読箇所

三位一体後第1主日

旧約 創世記 3:14–24

◆蛇の誘惑
15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
23 人は言った。「ついに、これこそ
わたしの骨の骨
わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。


ヨハネの黙示録 22:1–5


14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は
あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」
16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め
彼はお前を支配する。」
17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い
取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
18 お前に対して
土は茨とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
19 お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
20 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。
21 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
23 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

説教

人はなぜ園の外へ出て行ったのか?

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    エデンの園の物語を読むたび、
    私は自分が小学生の頃に観た
    ドラえもんの映画を思い出します。
    映画の冒頭で、のび太は本屋で
    『せかいのはじまり』という本を
    立ち読みしていました。
    そこで、彼は、神によって
    世界が造られた場面から、
    エデンの園の物語までの話を読みます。
    ちょうど、私たちが2ヶ月ほどかけて
    礼拝の中で読み進めてきた場面ですね。
    エデンの園の物語の最後のシーンで、
    神との約束を破った人間たちは
    園から追放されてしまいます。
    のび太はこの出来事に対して、
    怒り、憤りを感じます。
    「この二人が悪いんだ!
    この二人が神様との約束を破らなければ、
    僕たちは、エデンの園で毎日、
    のんびりと暮らせたのに!
    彼らが楽園から追っ払われたから、
    僕たち子孫はこんなに苦労するんだ!」
    このふたりのせいで、
    人間の労働が辛いものになっている。
    彼らが園を追放されてしまったから、
    人間は苦しんで働かなければならない。
    そう、今自分が取り組まなければいけない、
    夏休みの宿題もだ。
    これが、創世記の伝える物語に触れた際に、
    怒りや憤りを覚えた、のび太の主張です。


    確かに、のび太の指摘は
    当然のものに思えるかもしれません。
    実際、神が食べてはいけないと伝えた、
    知恵の実を食べた人間たちに、
    神からの厳しい言葉が語られ、
    彼らはエデンの園を
    追放されているのですから。
    ということは、創世記に記されている
    エデンの園の物語は、
    人間の失敗の物語でしかないのでしょうか。
    エデンの園から追放されて、
    園の外で生きることも、
    園の外の世界で働くことも、
    すべて神からの罰でしかないのでしょうか。
    もしもそうならば、
    この世界のあり方は、
    神からの呪いで満ちていることになります。
    それは、創世記1章で紹介された、
    この世界はすべて良いという、
    神が宣言された世界とは、
    全くもって正反対のような、
    世界の理解が示されているといえます。


    もちろん、そんなことはありません。
    創世記3章の物語において、
    人間が神との約束を破った時、
    彼らは神から厳しい言葉を
    伝えられてはいますが、
    神から呪いを
    受けることはありませんでした。
    むしろ、ここで、呪われたと
    神から告げられているのは、
    私たちが生きるこの大地です。
    そう、神との約束を破った
    人間の過ちによって、
    この世界が呪われ、
    被害を被りました。
    人間の側が問題を引き起こし、
    人間同士だけでなく、
    この世界に対しても、
    悪い影響を与えてしまっている。
    それは、まさに、
    そんな私たち人間の現実を
    真剣に見つめている言葉といえます。
    労働の苦労が伝えられているのは、
    まさに人間の過ちや罪によって、
    この世界に悪い影響が
    広がっていることこそが原因だからです。


    きょうは開きませんでしたが、
    そもそも働くことは、
    人間が過ちを犯す前から、
    人間たちに与えられた
    使命のようなものでした。
    神と共に、園を維持し、管理する。
    それが人間に与えられた仕事でした。
    人間の犯した過ちの影響で、
    大地が呪われたために、
    人間に与えられたその使命が、
    エデンの園の外の世界においては、
    過酷なものとなってしまった。
    それが神が人間たちに伝えていることです。
    ですから、人間たちに神からの罰として、
    呪いの言葉は、ここでは一切
    神から与えられていません。
    たしかに、日本語訳の聖書では、
    女性たちが出産による苦しみを大いに増すと、
    呪いの言葉のように
    伝えられているようにみえます。
    けれども、旧約聖書が記された
    ヘブライ語でこの部分を読んでみると、
    苦しい労働を増やすことと、
    出産を増やすということを
    別々に語っているに過ぎません。
    そのため、出産の痛みや苦しみが
    神からの呪いとして、
    より大きなものになってしまったと
    伝えているわけではありません。
    むしろ、出産を増やすということは、
    旧約聖書においては、
    祝福を伝える言葉です。
    ですから、どうやら
    神からの呪いの言葉を告げられて、
    人間たちが園から追い出された、
    というわけではないようです。
    むしろ、人間たちの側が
    問題を引き起こしていることの方が
    強調されているといえるかもしれません。
    というのも、「あなたは夫を求め、
    夫はあなたを治める」と、
    女性に向けて語られています。
    お互いに向き合って、
    助け合う存在として、
    人間が造られた、というのが
    創世記の物語がこれまで伝えてきたことです。
    けれども、そうではなくなっている。
    知恵の実に手を伸ばし、
    神のようになることを望んで以来、
    人間同士の関係性が歪んでしまっている。
    神はその事実に目を向けるようにと、
    促しているかのようです。
    誰かが誰かの上に立とうとしてしまっている。
    誰かがいつも踏みにじられている。
    誰もが等しい存在として造られたのに、
    人間同士が対等であろうとしなくなり、
    人間関係が歪なものになってしまった。
    そう、ですから、
    あくまでも、人間たち自身の過ちによって、
    引き起こされてしまった悲しむべきことを
    神は伝えているといえるでしょう。
    神との約束を破った結果、
    神との関係性が損なわれただけでなく、
    大地が呪われてしまったことや
    人間同士のお互いの関係性が
    歪んだものになってしまった。
    そういったことを受け止めて、
    エデンの園の外の世界で生きるようにと、
    神は彼らに伝えています。


    このように、神から人間に語られた言葉の中に、
    人間たちに対する呪いの言葉が
    一切ないことを考えると、
    エデンの園からの追放は、
    過ちを犯した人間たちに
    罰を伝えるためだけのものとして
    描かれているわけではないといえます。
    この物語の結びである
    23節と24節で、人間たちは園から
    「追い出され」、「追放された」
    と記されています。
    2度、園からの追放が記されているのですが、
    どちらも同じ単語を
    使っているわけではありません。
    23節の方は、「派遣する」という
    意味合いの言葉が使われています。
    ですから、エデンの園の外の世界の大地を
    人間たちが耕す。
    そんな目的をもって、
    彼らは園の外へと神から派遣された、
    と記されていることがわかります。
    ところで、エデンの園の物語は、
    創世記2章から始まっていますが、
    この世界の最初の状態を描く際に、
    そこでは、土を耕す人が
    いなかったと書いています。
    神が創造した世界を
    耕し、維持・管理する存在として、
    神は人間を創造しています。
    けれども、神は最初は、人間に
    世界全体を耕すようには伝えません。
    エデンに造った園を耕し、守るように、
    神は伝えています。
    ただ、エデンの園を耕し、守るだけでは、
    神の創造の働きは完成しません。
    だって、園の外の世界も
    耕す人を必要としているのですから。
    ですから、人間が園の外に出て行き、
    世界を耕し、維持し、管理する。
    それが人間たちに
    最終的に期待されていることであったと、
    この物語の始まりから考えることができます。
    そうであるならば、
    エデンの園からの追放は、
    単なる罰ではないといえるでしょう。
    確かに人間たちは
    過ちを犯してしまいました。
    けれども、神は人間を見捨てていません。
    人間たちのこれからの未来を呪っていません。
    人間たちを放置することもしていません。
    過ちを犯してしまったけれども、
    神は彼らに使命を与え、
    目的を持って、
    園の外の世界で生きるようにと、
    送り出しています。
    過ちを犯して、神との約束を破って、
    すべてが台無しになり、
    すべてが呪われ、
    すべてが無意味になった
    というわけではないのです。
    過ちを犯したその瞬間、
    神が人間たちのことを見限り、
    彼らを見捨てるために、
    園の外へと追放したわけでもありません。
    人間たちに裏切られた。
    けれども、神は人間たちを憐れみ、
    人間たちを諦めず、
    人間たちに期待することをやめず、
    ご自分の良い目的のために、
    彼らをエデンの園の
    外の世界へと送り出したのです。
    土を耕す人がいなかった世界へと、
    土を耕す人を必要としていた世界へと、
    神は彼らを送り出したのです。


    彼らが送り出された、エデンの園の外は、
    何も劣悪な、呪われた場所だった
    というわけではありません。
    旧約聖書が象徴的に描く世界は、
    エデンの園から川が流れ、
    世界を潤している世界です。
    世界は良いものとして、
    神によって造られています。
    けれども、それは、
    エデンの園のように、
    維持や管理が必要な世界です。
    またそれは、人間たちの過ちによって、
    傷つき、歪んでしまった世界です。
    そんな世界の傷が回復し、
    歪みが解消され、
    本来の美しさが取り戻され、
    維持や管理がなされていく。
    それが神が望んだことです。


    そう考えると、この物語は、
    単なる人間の失敗や
    堕落の物語ではありません。
    最初の人間たちが過ちを犯したがために、
    私たち人間が呪われ続けていることを
    伝えている物語でもありません。
    たしかに、私たちが原因となって
    問題をいくつも引き起こしてしまう。
    傷や歪みを生み出してしまう。
    それによる苦労が多いことも確かです。
    この物語がそういった現実を
    私たちに伝えることも確かなことです。
    けれども、それ以上に
    この物語が伝えるのは、
    それでも、私たちは
    神から目的をもって、
    この世界に遣わされてるということです。
    私たちはこの世界を
    耕すことができます。
    この世界が抱える傷や歪みと向き合って、
    この世界で生きることができます。
    神が私たちを見捨てずに、
    目的をもって送り出してくださったからです。
    それは確かに、時には
    過酷なものかもしれません。
    人間の罪や過ちのために、
    この世界が呪われ、
    傷つき、歪みを抱え、
    叫び声を上げているんですから。
    それは、この世界を見渡せば明らかです。
    戦争や紛争は
    人間たちだけの問題ではありません。
    私たち人間の命を奪い、
    人の尊厳を踏みにじるだけでなく、
    この地球全体に大きな傷を与えています。
    危険物質で土や海は汚染され、
    たくさんの建物が瓦礫の山となりました。
    森林は焼け、動物たちは
    住む場所を失いました。
    戦争だけではありません。
    テクノロジーの発展の追求は、
    エネルギーを必要としています。
    たくさんのエネルギーを生み出すために、
    温室効果ガスが排出され、
    温暖化が進んでいます。
    人間の過ちゆえに、
    とどまることを知らない欲望ゆえに、
    自らの利益追求のために、
    この大地が呪われている。
    そして、回り回って、
    気候変動や水不足などといった形で、
    私たち人間の生活を脅かしています。
    「あなたのゆえに、
    土は呪われてしまった」。
    神がエデンの園で語ったあの言葉は、
    私たちが生きる現代世界に、
    悲しいほどに、痛いほどに、響き渡っています。
    この世界は傷つき、歪みを抱え、
    叫び声を上げているんですから。


    だからこそ、私たちは今一度、
    土を耕すために造られた、
    ということを思い起こす必要があります。
    自分一人で、身勝手に生きるのでもなく、
    周囲の人たちとだけ生きるのでも、
    人間だけで生きるのでもありません。
    この世界で生きる
    命を持つすべての生き物たちと、
    私たちを取り囲む自然と共に、
    私たちは生き、
    自分たちのためだけでなく、
    共に生きるすべてのものたちのために、
    この世界を耕しています。
    方法は人それぞれです。
    子どもたちは、未来を形作るために、
    共に生きる人たちと
    手を取り合いやすくするために、
    思いっきり遊び、そして学び続けます。
    ちょっと嫌かもしれないけど、
    夏休みの宿題もします。
    大人たちは、各々の仕事の中で、
    家庭や地域社会との関わりの中で、
    この世界を耕します。
    それは、人との関わりを
    円滑にすることかもしれないし、
    社会のシステムを
    少しだけ直したり、
    整えていくことかもしれません。
    おかしいなと思ったことに、
    小さな声を上げていくことかもしれません。
    道端に落ちるゴミを拾ったり、
    資源となるゴミを
    きちんと分別することかもしれません。
    きっと、そういった
    小さなことを積み重ねながら、
    私たちはこの世界を耕すようにと、
    招かれています。
    ですから、人がエデンの園の
    外へ出て行ったのは、
    失敗や堕落だけの理由ではありません。
    私たちが失敗し、
    神を落胆させることがあるにもかかわらず、
    神は私たちと手を取り合いたいと
    願っておられます。
    何度でも、諦めず、
    この世界の回復と癒やしを目指して、
    この世界を一緒に耕そうと、
    神は私たちをいつもそれぞれの生活の場へと
    送り出してくださっているのです。
    ですから、私たちは
    神との出会いを通して受けた、
    恵みや憐れみ、愛や慈しみ、
    平和や正義を願う思いを携えて、
    この世界へと出て行きましょう。
    みなさんのひとつひとつの行動が、
    言葉が、そして祈りが、この世界を耕し、
    命を豊かに生かすものとなりますように。

週報より

  • 2025.06.22 週報より抜粋・要約

  • ① 7月の第一日曜日(7月6日)に、自宅〜教会間の送迎を試験的に行います。
    将来的に、教会〜自宅間の送迎を定期的に行えるようにと願っています。
    どのような形で実現可能なのかを探るため、7月の最初の日曜日に、
    送迎を希望される方々の自宅〜教会間の送迎を行ってみたいと思います。
    ご利用を希望される方は、牧師までお気軽にお声がけください。

    ② きょうの礼拝後、月報『モレノ』編集会を行います。
    モレノチームのみなさま、よろしくお願いいたします。

    ③ 夏季献金のお願い
    牧師の夏の手当とピアノの調律のための献金です。
    受付テーブルに置いてある献金袋をご利用ください。

    ④ 外壁塗装のための献金へのご協力のお願い
    私たちの教会はおよそ10年ごとに礼拝堂の外壁塗装を行っています。
    礼拝堂を長く使用するために、必要な定期的なメンテナンスです。
    ご協力いただける方は、受付テーブルの上にある献金袋をご使用ください。
    目標金額は140万円です。

    ⑤ 基嗣牧師は28日(土)から29日(日)まで、広島出張のため不在です。
    来週の小山教会の礼拝は、石田学先生が担当してくださいます。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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