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三位一体後第6主日

創世記 5:1–32

◆アダムの系図
1 これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、
2 男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。
3 アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。
4 アダムは、セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。
5 アダムは九百三十年生き、そして死んだ。
6 セトは百五歳になったとき、エノシュをもうけた。
7 セトは、エノシュが生まれた後八百七年生きて、息子や娘をもうけた。
8 セトは九百十二年生き、そして死んだ。
9 エノシュは九十歳になったとき、ケナンをもうけた。
10 エノシュは、ケナンが生まれた後八百十五年生きて、息子や娘をもうけた。
11 エノシュは九百五年生き、そして死んだ。
12 ケナンは七十歳になったとき、マハラルエルをもうけた。
13 ケナンは、マハラルエルが生まれた後八百四十年生きて、息子や娘をもうけた。
14 ケナンは九百十年生き、そして死んだ。
15 マハラルエルは六十五歳になったとき、イエレドをもうけた。
16 マハラルエルは、イエレドが生まれた後八百三十年生きて、息子や娘をもうけた。
17 マハラルエルは八百九十五年生き、そして死んだ。
18 イエレドは百六十二歳になったとき、エノクをもうけた。
19 イエレドは、エノクが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。
20 イエレドは九百六十二年生き、そして死んだ。
21 エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。
22 エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。
23 エノクは三百六十五年生きた。
24 エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
25 メトシェラは百八十七歳になったとき、レメクをもうけた。
26 メトシェラは、レメクが生まれた後七百八十二年生きて、息子や娘をもうけた。
27 メトシェラは九百六十九年生き、そして死んだ。
28 レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。
29 彼は、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。
30 レメクは、ノアが生まれた後五百九十五年生きて、息子や娘をもうけた。
31 レメクは七百七十七年生き、そして死んだ。
32 ノアは五百歳になったとき、セム、ハム、ヤフェトをもうけた。


コリントの信徒への手紙 二 1:3–7

◆苦難と感謝
3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。
4 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
5 キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。
6 わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。
7 あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。

説教

慰めを待ち望む

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    聖書の中には、
    旧約聖書にも、新約聖書にも、
    いくつもの系図が記録されています。
    現代の日本社会で生きる
    私たちからしてみれば、
    古代の人々の系図が一体、
    自分にとって何の関係があるのかと
    思ってしまいます。
    ですから、多くの人にとって系図は、
    読み飛ばしてしまいがちな箇所です。
    けれども、聖書の言葉を
    自分たちにとって重要な、
    信仰の証言であり、
    神の言葉として受け止めた
    古代のユダヤ人たちにとって、
    系図は大きな意味を持っていました。
    というのも、系図は、
    それに関わる人たちにとっては、
    出自や他の人との親戚関係などを
    伝えるものでした。
    自分たちは何者なのかについて、
    他の人に、そして自分自身にも、
    証明することができたのは、
    系図があったからでした。
    特に、旧約聖書に登場する古代イスラエル人、
    のちにユダヤ人と呼ばれた人たちの先祖は、
    エジプト、アッシリア、バビロニアなど、
    大きな帝国からの暴力を受け、
    世界中に散らされることを経験しました。
    自分たちの故郷を離れ、
    時には頼れる親戚や
    友人たちとも離れ離れになって、
    彼らは難民として
    暮らす生活をしていました。
    系図は、そんな彼らにとって、
    自分たちが何者であるのかを
    教え続けました。
    何よりも、強制的に外国へと連れて行かれた、
    バビロン捕囚を経験した人たちが、
    捕囚から解放されて、
    故郷エルサレムに帰ることができたとき、
    系図の存在は自分たちが何者であるのかを
    お互いに伝え合い、
    エルサレムでの再出発を支えることに
    役立ったことでしょう。
    もちろん、中には、系図を用いて、
    自分たちが古代イスラエルにおいて、
    とても有力な家系であったことを
    主張する人たちもいたでしょうから、
    争いの種になったこともあったと思います。
    それでも、いずれにせよ、
    系図というものが聖書の中で、
    特に旧約聖書の中で発見できるのは、
    古代の人々から
    それだけ重要視されていた証拠です。


    さきほど私たちは、
    創世記5章に記されている
    系図を読みました。
    この系図が真っ先に
    私たちに与える違和感は、
    生きた年数の長さでしょう。
    「文字通りこの数字を
    受け取ることはありえない。」
    「いやいや、神が寿命を定める前は、
    それが可能だったんだよ。」
    「現代人とは、年齢の数え方が
    違うんじゃない?」
    などといった声が聞こえてきます。
    古代メソポタミアにおいて、
    王の名前と統治期間が
    記録されている文書があります。
    そのような文書に登場する王たちは、
    神から王位を受け取ります。
    最初の王たちの統治期間は、
    28,800年、36,000年などと、
    創世記よりもありえない数字を
    記録しています。
    そして、時代が進むと、
    歴代の王たちの統治期間は、
    徐々に、現実的な数字に変わっていきます。
    神と王族の結びつきを伝え、
    王位の正統性を伝えるために、
    このような非現実的な数字で
    最初の王たちの統治期間は
    記録されたのでしょう。
    このような記録方法が
    知られていた文化の中で、
    創世記という文書は生み出されました。
    そう考えると、最初の人間アダムが
    神のかたちに似せて造られたという、
    人類の起源を伝えるこの系図が、
    そこから影響を受けていたとしても、
    何もおかしくありません。


    ただ、この系図に記されている人たちが
    生きた期間が文字通りであったのか、
    それともこの数字が
    より象徴的なものであるのか
    といったことばかりに
    心を奪われてしまうと、
    私たちはこの系図が
    より明確に強調しようとしていることを
    見過ごしてしまいます。
    この系図を読む時、多くの方は、
    眠気を覚え、退屈さを感じると思います。
    その退屈さの原因は、
    お決まりのパターンが何度も何度も
    繰り返されていることにあります。
    でも、時々、この系図は
    そのパターンから抜け出して、
    私たちのそんな眠気を
    吹き飛ばそうとしています。
    どんな脱線があるでしょうか?


    この系図には全部で
    3つの脱線があります。
    ひとつは、アダムについて。
    彼は神のかたちに似せて造られ、
    彼の子どもであるセトは、
    アダムに似た存在
    であったことが伝えられています。
    アダムは人類を意味する単語ですので、
    アダムという存在を通して、
    この系図は人類全体を
    象徴しようとしています。
    性別も関係なく、
    生まれや民族も関係なく、
    社会的な地位も、
    持っている資産や能力も関係なく、
    すべての人が神のかたちに造られた。
    だから、すべての人間は
    とても尊く特別な存在なんだ
    という宣言から、
    この系図は始まります。
    そんなアダムと同じように、
    次の世代も、これからの世代も、
    神のかたちに似せて造られていることを
    この系図は伝えています。
    けれども、この系図で
    繰り返されている言葉は、
    それと同時に、
    不穏な雰囲気を伝えています。
    長い期間生きている、
    この系図に記されている人たちに対して、
    「そして彼は死んだ」と、
    何度も伝えられています。
    聖書に記録されている
    他の系図と比べてみると、
    この繰り返しは、
    実は不自然であることに気づきます。
    他の系図では、
    基本的に人の死は描かれません。
    系図に載っている人たちは、
    先祖たちの名前ですから、
    わざわざ彼らの死を
    強調する必要がないためです。
    それなのに、なぜ一人ひとりに対して、
    この系図は「そして彼は死んだ」と
    繰り返し記録しているのでしょうか。
    それはきっと、「取って食べると
    必ず死ぬことになる」(2:17)と
    神から伝えられた善悪の知識の実に
    人間たちが手を伸ばしてしまったことと
    関係があるのでしょう。
    神に対して過ちを犯して以来、
    人は、神との関係や
    共に生きる人たちとの関係を
    損なってきました。
    これまでの創世記の物語において、
    死という言葉は、
    そのような人間の過ちを
    思い起こさせる響きを持っています。


    けれども、この系図は
    絶望感を演出するために、
    この「そして彼は死んだ」という言葉を
    何度も繰り返しているわけではありません。
    というのも、この系図に登場する
    すべての人の死が
    描かれているわけではないからです。
    この系図は、ふたりの人物の死を
    描きませんでした。
    ひとりは、アダムから7代目に当たる、
    エノクという人物。
    もうひとりは、ノアです。
    そう、このふたりを紹介する箇所こそ、
    この系図が選んだ残り2つの脱線です。
    エノクは、神と共に歩んだ人として
    紹介されています。
    それは、まさに人間が
    失敗してきたことです。
    だからこそ、「エノクは神と共に歩」(24節)んだ
    という言葉は、この系図を読む人にとって、
    希望となり得る言葉でした。
    系図の長さは、
    常に成功や反映の歴史の証明
    というわけではありません。
    むしろ、失敗や挫折の
    積み重ねにだってなります。
    神から離れていってしまう。
    そして、人間同士にトラブルがある。
    その点において、
    創世記が紹介する物語は、
    挫折や失敗、過ちや背きの連続です。
    けれども、そのような悪い
    積み重ねがあったとしても、
    悪循環がどれほどあったとしても、
    それでも、そのような
    悪い流れを断ち切って、
    神と共に歩むことができる。
    エノクはそれができた。
    そして、エノクが
    神と共に歩むことができたのだから、
    この系図の先に生きる私たちだって、
    そんな悪い流れを断ち切って、
    神と共に歩むことができるかもしれない。
    そんな希望を感じさせる脱線を
    この系図は行っているのです。


    けれども、この系図が最も強調したいのは、
    そんなエノクの存在ではありません。
    この系図の最後に登場する、
    ノアの方です。
    ノアについて、彼の父親のレメクが
    その名前の意味を説明しています。
    「この子は、主が土を呪われたゆえの、
    私たちの手の働きと労苦から、
    私たちを慰めてくれるであろう。」(29節)
    そう言って、レメクは
    ノアに希望を見出しています。
    どうやら、レメクは、
    ノアが、神と共に歩むことを通して、
    この大地の呪いが
    解かれると信じたようです。
    人間の罪や背きのために、
    傷ついてしまい、うめき声を上げている
    この世界が、その苦しみから解放される、と。


    けれども、そのノアは
    本当に慰めとなったのでしょうか。
    ノアを通して、大地の呪いは
    過ぎ去ったのでしょうか。
    彼のみが神と共に歩めば、
    問題はすべて解決したのでしょうか。
    確かに、ノアは神と共に歩み続けました。
    そのことは、創世記6章以降に記されている
    ノアの物語を読めば、明らかです。
    人間の罪や過ちが溢れた時代に、
    それでも、神と共に歩むことを選び続けた
    ノアの存在は、神にとって慰めでした。
    また、ノアの存在は、
    後の時代の人々にとっても、
    どのような時代においても、
    神と共に歩むことができる
    という模範を示すような、
    希望と慰めの光であったでしょう。
    けれども、やはり、ノアは
    真実の慰めとはなりませんでした。
    ノアに倣って、神と共に生きるよりも、
    神に背き続けることを選ぶ人間の現実が、
    ノア以降の時代も、
    そして現代においても支配的だからです。
    ノアがどれほど正しさを示したとしても、
    人間の罪や暴虐が広がり、
    神の裁きとして、洪水が
    世界に押し寄せてきたことを
    創世記は伝えています。
    人間の罪ゆえに、
    この大地が傷つき、呪われ、
    悲鳴を上げている。
    ノアの存在は、そのような中でも、
    神と共に生きることができるという
    慰めを神や人々に与える一方で、
    何の解決策も、救いも、
    解放も与えられませんでした。
    そのため、この系図を読み進めて、
    「ノア」という名前と出会うとき、
    私たちはひとつの問いと
    出会うことになります。
    「慰め」を望まれたノアを通して
    真実な慰めを得ることができないならば、
    私たちにとっての慰めは、
    どこにあるのだろうか。
    そして、そんな慰めがあるとするならば、
    一体何が私たちの慰めとなるのでしょうか。


    きょうは新約聖書から、
    使徒パウロがコリントの教会に宛てた、
    第二の手紙を読みました。
    パウロは、神こそが
    慰めの源であると示した後、
    キリストを指さします。
    神が私たちのもとに送ってくださった
    キリストを通して、神のその慰めは
    私たちの間で、豊かに
    満ち溢れたものになると、
    パウロは書いています。
    そう、キリストのもとにこそ、
    慰めがあるのです。
    私たちは毎週日曜日、
    いつも礼拝の前半で
    罪の悔い改めの祈りを祈っています。
    それは、憐れみに満ちておられる神が
    イエス・キリストを通して、
    私たちの罪を赦し、
    私たちをその罪の悲惨さから
    救い出してくださっているからです。
    神と共に歩むよりも、
    神に背を向けて歩むことを選んでしまう。
    共に生きる人たちと手を取り合うよりも、
    自分の利益のために人々を利用し、
    傷つけることを厭わない。
    そんな私たちをどこまでも赦し、
    常に受け止め、神の子として歩むようにと、
    いつも招き続けているイエスさまは、
    まさに私たちにとっての慰めです。
    また、十字架の上での死に至るまで、
    あらゆる苦しみを経験したイエスさまは、
    私たちの苦しみに寄り添い続け、
    私たちと共にいてくださる方です。
    そんなイエスさまは、
    生涯における私たちの慰めの源です。
    そして何よりも、死者の中からよみがえり、
    復活の希望にあふれる命を示し続ける
    よみがえりの主であるイエスさまは、
    私たちにとって、そしてこの世界にとって、
    命の回復の希望を示す、真実の慰めです。
    このようなイエスさまを通して得る、
    神からの慰めは、私たちにとって、
    何物にも代えがたい宝です。
    けれども、パウロは神からの慰めは、
    自分たちだけで
    握りしめるようなものじゃないと、
    コリント教会の人たちに教えています。
    キリストにある、神の慰めは、
    私たちがお互いに分かち合えるものです。
    キリストを通して
    神から慰めを受けた私たちは、
    その慰めをお互いに手渡すことができます。
    系図のように、次の世代、次の世代へと。
    そして、共に生きるあらゆる人たちのもとへと。
    神の慰めを分かち合い、
    手渡していくことができます。
    慰めの源であるキリストは、
    私たちと共にいてくださいます。
    ですから、慰めの源であるキリストと
    共に生きるここに集うみなさんが、
    この社会に対して、
    神の慰めを届ける人となりますように。
    主キリストの慰めが、皆さんを通して、
    この世界に行き渡っていきますように。

週報より

  • 2025.07.27 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に、月報『モレノ』編集会をおこないます。
    モレノチームのみなさまはよろしくお願いいたします。
    また、今年は小山教会50周年記念の『モレノ』特別号を発行予定です。
    ご協力いただける方は、稲葉奈々さんまでお知らせください。

    ② 次週(8月3日)に、自宅〜教会間の送迎を行います。
    ご利用を希望される方は牧師または教会役員までお気軽にお声がけください。
    送迎用の公式LINEを開設しましたので、ご利用ください。
    https://lin.ee/GoOyqvC より友だち追加が可能です。

    ③ 外壁塗装のための献金へのご協力のお願い (目標金額:140万円)
    私たちの教会はおよそ10年ごとに礼拝堂の外壁塗装を行っています。
    礼拝堂を長く使用するために、必要な定期的なメンテナンスです。
    ご協力いただける方は、受付テーブルの上にある献金袋をご使用ください。
    塗料の色のサンプルを受付テーブルに置いておきます。どうぞご覧ください。
    ご希望の色などありましたら、牧師までお知らせください。

    ④ ご協力のお願い
    一人でも多くの方に快適にお過ごしいただくため、
    長椅子に4名の方が座れるように、ご協力よろしくお願いいたします。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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