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三位一体後第7主日

創世記 6:1–22

◆洪水
1 さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。
2 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。
3 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。
4 当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。
5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、
6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。
7 主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
8 しかし、ノアは主の好意を得た。
9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。
10 ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。
11 この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。
12 神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。
13 神はノアに言われた。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。
14 あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。
15 次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、
16 箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。
17 見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。
18 わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。
19 また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。
20 それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。
21 更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」
22 ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。


ローマの信徒への手紙 8:18–22

◆将来の栄光
18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。

説教

神の後悔は過ぎ去ったのだろうか?

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    創世記6章はとても不思議で、
    そして謎めいた始まり方をします。
    これまでこの物語の中では
    一度も言及のなかった、
    神々の子たちと呼ばれる人たちが突如現れ、
    女性たちと結婚をしたことが報告されます。
    そして、彼らの間に生まれた子どもたちは、
    ネフィリムと呼ばれています。
    この出来事は、どうやら神にとって、
    好ましくないことであったようです。
    このような様子を見た神は、
    神の霊が人間のうちに
    永遠にとどまるべきではないと判断し、
    人間の寿命を120年と定めます(3節)。
    具体的に、一体何が問題であったのかも、
    その問題を引き起こしている人々についても
    まったくわからないまま、
    神のこのような決定が伝えられています。
    そのため、創世記6章の冒頭部分は、
    旧約聖書の中でも特に
    解釈が困難な箇所として知られています。
    実際、提案されている解釈は様々です。
    ある人は、神の子たちとは、
    歴代の王たちのことを示すものと考えます。
    神の子たちが、
    自分にとって好ましい女性を選んで、
    結婚していったという描写が、
    ダビデやソロモンといった
    イスラエルの王たちが自分勝手に、
    ほしいままに振る舞ったことを
    遠回しに批判している物語として
    受け止めることは可能です。
    その他にも様々な解釈が提案されていますが、
    正直なところ、神の子たちが
    誰であるのかを特定することは、
    証拠が少なすぎて困難な作業です。
    けれども、どのような解釈においても、
    この創世記6章の冒頭部分は、
    同じ方向を見つめようとしていることに、
    変わりはわかりません。
    それは、創世記6章以降で描かれる、
    洪水が引き起こされる原因になったのは、
    何であったのかを
    明らかにすることにありました。
    そう、その原因とは、
    人間の悪がこの地上に
    蔓延ってしまったことにあります。
    そのことを伝えるための導入として、
    この不思議で謎めいた物語は
    描かれたのでしょう。


    さて、そのような序章を終えて、
    「ノアの箱舟」として知られる、
    旧約聖書の洪水物語は幕を開けます。
    その際、この物語は、
    神は見つめた、という言葉から始まっています。
    「神が見つめる」という言葉は、
    創世記のこれまでの物語にとって、
    とても大きな意味合いが込められています。
    というのも、創世記の始まりの章において、
    この世界を造った神が、
    この世界を見つめたその様子が
    何度も何度も描かれているからです。
    神はこの世界に光を創り出し、
    それを見つめて、「良い」と宣言しました。
    水で覆われていた世界が、
    陸と海に分かれた様子を神は見つめました。
    そして、「良い」と宣言しました。
    この地上に植物が生えたときも、
    空に、太陽や月や星を造ったときも、
    海に生きる生物や
    空の鳥たちを造ったときも、
    神はひとつひとつのものを見つめて、
    そこに広がる生き生きとした命を喜んで、
    「良い」と宣言されました。
    そして、動物たちや人間たちを造り、
    この世界が完成したときも、
    神は「良い」「極めて良い」と宣言し、
    喜びでいっぱいになって、
    この世界を愛しく見つめていました。
    そんな神の眼差しは、
    何度も、何度もこの世界に
    注がれ続けました。
    けれども、この世界が
    常に良いもので溢れていた
    わけではありませんでした。
    神に反逆する人々。
    自己正当化を繰り返し、
    共に生きる人たちをけなす人々。
    お互いに手を取り合うのではなく、
    傷つけ、命を踏みにじってしまう人々。
    争い合い、復讐を正当化する人々。
    神が見つめた世界には、
    そのような人間の悪が広がっていました。
    「とても良い!」「素晴らしい!」と、
    神が手放しで喜んでいた世界は
    もう、そこにはありません。
    人間の心が悪に染まり、
    暴力が世界に広がっていきました。
    残念なことに、それは、
    人間たちだけの問題で
    留まるものではありませんでした。
    人間の過ちや罪のために、
    この大地が呪われていると、
    創世記はこれまで
    何度も繰り返し伝えてきました。
    そう、人間が抱えた問題は、
    人間たちだけの間でとどまるのではなく、
    神が造った世界全体に悪い影響を
    与え続けてしまったのです。
    人間の罪のために、
    この大地が悲鳴を上げていたのです。
    だから、神はこの世界を見つめた時、
    もはや「良い」とは宣言できませんでした。


    そして、私たちは衝撃的な言葉と
    出会うことになります。
    神が「地上に人を造ったことを悔やみ、
    心を痛められた」(6節)と、
    神の後悔が記されています。
    神が望んで、この世界を造り、
    私たち人間をご自分のかたちに
    似せて造りました。
    それなのに、
    神が人間を造ったことを悔やんだとは、
    一体どういうことなのでしょうか。
    神の側の愛が冷え切って、
    人間を完全な失敗作として
    考えるようになってしまったのでしょうか?
    神は変わってしまったのでしょうか?


    いえ、寧ろ、変わってしまったのは、
    人間の方なのでしょう。
    神にとって大切で、愛おしくて仕方がない、
    とても良い存在として造られた人間たちが、
    変わってしまったのです。
    悪に心を染め、罪を重ねてしまう。
    暴力に暴力を、
    報復に更なる報復を重ねてしまう。
    共に生きる仲間や家族と信頼し合って、
    手を取り合うよりも、
    蹴落とし、利用し合い、
    傷つけ合ってしまう。
    神に背を向け、
    自分自身を神の位置に置いて、
    自分をこの世界の中心に据えて生きてしまう。
    このような人間の抱える、罪深い現実に、
    神は、困惑し、心を痛めました。
    人間を創造したことを嘆き、後悔するほどに、
    神は打ちのめされ、傷ついています。
    神のうちにこのような後悔を
    引き起こすほどに、
    人間の罪や悪が
    悲惨なものであるという事実を、
    そしてその深刻さを
    この物語は私たちに訴えています。


    このような人間の罪がまさに原因となって、
    神の後悔が引き起こされ、
    最終的に、この物語は、
    洪水による神の裁きへと
    向かっていきます。
    洪水物語で描かれている、
    神のこの決断は、正直、
    多くの人の心をざわつかせるでしょう。
    神は愛に溢れている方なのに、
    なぜこのような決断ができたのだろうか。
    やはり、旧約聖書で描かれる神は、
    愛にあふれる神ではなく、
    怒りに満ちている神なのだろうか、と。
    神のその決断は、
    決して神の気まぐれでもなければ、
    徹底的な怒りの現れでもありません。
    失敗作を作ってしまったことの深い反省や、
    はじめからやり直そうという、
    リセット思考というわけでもありません。
    人間の罪によって、人間も、世界も、
    そこに生きるすべての生き物もみな、
    傷つき、命を歪め、
    混沌へと向かってしまっているこの世界が、
    もうこれ以上、ぐちゃぐちゃになって、
    カオスに飲み込まれていかないようにと、
    神は願いました。
    けれども、人間の悪やこの世界の混沌を
    食い止めなければならないと
    考えるその一方で、
    私たち人間を慈しみ、愛する思いが
    神の心にはありました。
    ですから、そんなふたつの思いに、
    神は心を引き裂かれながら、
    人間の悪の蔓延やこの世界の混沌を
    食い止めるために、
    洪水を起こす決断をしました。
    そこに愛がなければ、
    きっと神は後悔なども抱かず、
    人間の罪を放置し、
    そのまま、世界が腐敗していく様子を
    ただじっと遠くの方から
    眺めていたことでしょう。
    神の側に愛がなければ、
    洪水の後のことなど考えず、
    世界は人間のいない世界に
    なっていたかもしれません。
    愛がなければ、神と共に歩んだノアと
    その家族をわざわざ選んで、
    人間たちと手を取り合って歩み出すことも、
    人間の罪の問題に
    神が共に立ち向かうこともしなかったでしょう。
    けれども、神は世界と
    そこで生きる私たち人間たちを
    愛し、慈しんだからこそ、
    悩み、傷つき、後悔し、そして決断しました。


    ところで、このような決断の結果、
    洪水が起こりました。
    そして、ノアとその家族が
    他の生き物たちと一緒に箱舟に乗り込み、
    彼らを通して新しい一歩が踏み出されました。
    このノアの箱舟の物語を
    最後まで読んでみると、
    そういった物語の結末が提示されます。
    ということは、洪水が過ぎ去り、
    ノアの家族が新しい歩みを始めた時、
    神の後悔は完全に過ぎ去ったのでしょうか?
    もちろん、そんなことはありません。
    神は傷つき続け、後悔し続けました。
    人間の罪は、その後も続き、
    混沌がこの世界を覆う勢いでいるからです。
    けれども、その神の後悔は、
    私たち人間を見捨て、
    この世界を完全に見放すことには
    働きませんでした。
    むしろ、人間が罪を抱え、
    悪を心に抱いて歩んで行くことに
    終止符を打つために、
    神は動き出しました。
    その後悔を完全に過去のものにするために、
    神はイエス・キリストを私たちのもとに送り、
    救いの希望としてくださいました。
    キリストを見つめて、
    キリストと共に歩むことを通して、
    この世界に暴虐を溢れさせ、
    混沌を広げていくような歩みではなく、
    お互いの命を喜び、
    お互いの持つ良いものを分かち合える道を
    私たちが歩んで行けると教え、
    私たちのことを励まし続けてくださっています。
    キリストの十字架上での死と復活を通して、
    罪の赦しと罪の束縛からの解放、
    そして永遠の命と天の御国への希望を
    神は私たちに与えてくださいました。
    もう、自分自身の罪によってもたらされる、
    混沌に押し流されて生きる必要などないと、
    神はイエスさまを通して、
    示し続けてくださっています。


    そのような希望を与えられているからこそ、
    私たちは今一度、神の後悔に目を向けます。
    ノアの洪水物語は過去のものになり、
    キリストが私たちの救いとして訪れた今、
    神の後悔は過ぎ去ったのでしょうか?
    残念ながら、「神にもう後悔はない」と、
    断言することはできません。
    だって、神がこの世界を見つめた時に
    ここに広がっているものは、
    決して、良いものばかりではないからです。
    どれだけ多くの人の平和が
    脅かされているのでしょうか。
    戦争や紛争によって。
    故郷を失い、見知らぬ地で
    難民として暮らすことによって。
    差別的な言動や、
    社会構造がもたらす不平等によって。
    そういった様々なことによって、
    この世界がぐちゃぐちゃであり、
    相変わらず混沌が広がっていることは、
    間違いありません。
    猛暑日が続き、雨が降る量が少ない、
    降ってたとしても、
    局所的な豪雨になってしまう。
    そんな気候変動や温暖化の事実を
    突きつけられるこの夏に、
    この大地やこの地球で共に生きる
    他の生き物たちが叫んでいる事実から
    目を背けることはできません。
    神の後悔は過ぎ去っていないのでしょう。
    神は今も、傷つきながら、
    私たちの生きるこの世界を
    見つめておられます。
    それでも、決して見捨てず、
    愛と憐れみを抱きながら、
    聖霊なる神を私たちのもとに遣わし、
    混沌の中で生きる私たちに、
    命の息を吹きかけてくださっています。
    そうやって、神は私たちと共に歩み、
    私たちの世界が抱える問題に、
    その根本にある、人間の罪に、
    向き合い続けてくださっています。


    だからこそ、私たちは、
    混沌が広がるこの世界で、
    神に平和を祈り求め続けます。
    この混沌として、どうしようもない状況の中に、
    神が命をもたらしてくださると信じます。
    私や共に生きる人たちを平和のために用いて、
    神がこのぐちゃぐちゃとした状況の中に
    生命を注いでくださると、
    私たちは希望を抱き続けます。
    そのような希望を決して絶やさずに、
    私たちは心に抱き続けているから、
    この世界の平和を
    神に祈り続けています。
    神の後悔が過ぎ去る日が訪れることを
    願い続けています。
    どうか、この混沌の中で、
    私たち人間の罪や過ちによって
    ぐちゃぐちゃになってしまっている
    この世界の中で、
    ひとつひとつ積み重ねたその祈りが、
    平和を形作る思いや行動、
    そして言葉をみなさんのうちに
    生み出し続けますように。
    そして、きょうも、そしてこれからも、
    私たちの思いや行動を
    平和の実現のために、
    神が用い続けてくださいますように。

週報より

  • 2025.08.03 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは平和聖日です。
    わたしたちは8月を平和のために祈る月としています。
    きょうは礼拝の中で平和の祈りを祈ります。日々の祈りとしてご活用ください。
    また、8月15日(金)午後7時30分より、平和の祈りという会を開催予定です。
    当日はYouTubeとインスタグラムでのライブ配信も行う予定です。

    ② きょうは礼拝後、賛美歌を歌う会を予定しています。

    ③ きょうは賛美歌を歌う会のあとに、月例教会役員会を行います。
    教会役員のみなさま、よろしくお願いいたします。
    おもな議題は、教会全体会の準備です。

    ④ 神学生の稲葉奈々さんは9日〜10日に神学校の夏季派遣で仙台へ行きます。
    仙台富沢教会の礼拝での説教と、平和祈祷集会の出席を予定しています。
    また、12日〜14日に奥多摩福音の家で開催される、
    全国ティーンズキャンプにもスタッフとして参加する予定です。
    良い時間となるようお祈りください。

    ⑤ 8月31日(日)の礼拝後に教会全体会を開催いたします。
    教会への要望、取り組みたいこと、将来の夢、ビジョンなど、
    みんなで話し合いたいことがありましたら、牧師にお知らせください。
    当日は全体会の前にランチの会も予定しています。出席をぜひご予定ください。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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