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朗読箇所

三位一体後第18主日

エレミヤ書 23:1–8

◆「羊の囲い」のたとえ
1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
2 門から入る者が羊飼いである。
3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
◆イエスは良い羊飼い
7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。


ヨハネによる福音書 10:1–10

◆「羊の囲い」のたとえ
1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
2 門から入る者が羊飼いである。
3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

説教

門である主イエス

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    イエスさまが人々に向けて語ったたとえ話は、
    羊と羊飼いの関係性に注目したものでした。
    正規のルートである門から入らずに
    羊のところへやってくるような、
    盗人や強盗の声に
    羊たちは決して耳を傾けません。
    羊たちは、彼らの羊飼いの声にこそ
    しっかり耳を傾けて、
    その声を聞き分けます。
    このような物語に耳を傾けていた
    人々の反応を確かめた後、
    イエスさまは「私は羊の門である」(7節)
    と言って、たとえ話の解説を始めました。


    イエスさまのこの発言を
    みなさんはすんなりと
    受け止めることが出来たでしょうか。
    「え、そっち?
    自分のことを羊飼いではなく、
    門にたとえるの?」
    って感じませんでしたか?
    羊と羊飼いの関係について話していたのに、
    イエスさまは急に私たちの目を
    門の方へと移します。
    なぜイエスさまは、
    この物語に耳を傾ける人たちに、
    門と自分を重ね合わせて欲しいと、
    願ったのでしょうか。


    羊と羊飼いについてのたとえ話の中で、
    イエスさまが自分のことを門にたとえることは、
    私たちにとってはとても不思議なことです。
    明らかにこの物語の中で目立っていた、
    羊飼いのことを無視する
    必然性がわかりません。
    けれど、イエスさまの話を
    実際に聞いていた聴衆にとっては、
    とても自然なものに聞こえたと思います。
    夏の間に牧草地で
    一時的に使用するために
    羊のための囲いを作ることが
    しばしば行われていました。
    夏以外の時期は、
    何軒かの家で共有する中庭に
    羊が集められて、
    門番が外敵や侵入者たちから
    羊を守っていました。
    けれども、夏場に牧草地で過ごす際、
    一時的に作られる囲いには
    門がありませんでした。
    当然、門番もいません。
    ですから、門や門番の代わりに、
    羊飼いが入口を塞ぐように眠りました。
    そう、羊飼いこそが、
    門の役割を担いました。
    ということは、イエスさまが
    自分自身のことを門であると言った時、
    羊飼いが担った門としての役割を
    人々は思い起こしたことでしょう。
    羊飼いが夜通し羊たちを守るように、
    イエスさまもその門を通った人々の
    命を守る存在だということです。
    このたとえ話の中に、
    盗人や強盗が出てくることによって、
    その意味合いは更に強められています。
    盗人や強盗がすることとして
    イエスさまが伝えるのは、
    盗み、屠り、そして滅ぼすことです。
    それはどれもが命を傷つけることです。
    門である羊飼いは羊を守ります。
    羊の命を傷つけるあらゆることから、
    身を張って、彼らを守るのが
    門である羊飼いという存在です。
    そう考えると、「私が門である」と
    イエスさまが語る時、
    イエスさまが私たちに対して、
    どのように関わろうとしているのかが
    より明らかになるのではないでしょうか。


    私たちが生きる現代社会において、
    私たちの命は様々な形で傷つけられ、
    そして損なわれています。
    それは、盗みや強盗といった
    誰の目から見てもわかりやすい形でのみ、
    私たちが被害を被っている
    というわけではありません。
    私たちの命はひどく傷つきます。
    誰かの些細な言葉や行動によって、
    命の豊かさは損なわれてしまいます。
    社会が見ないふりをし続けている、
    差別意識に触れるとき、
    私たちの命はすり減っていきます。
    国家が正義を主張し、
    あらゆる暴力が正当化される時、
    私たちの命は蔑ろにされています。
    人間の罪や悪によって引き起こされる、
    嘘や不正義や、極端な利益追求が、
    私たちの命を踏みにじります。
    このような世界で生きる私たちのために、
    イエスさまは私たちに命を与えるために
    来てくださいました。
    そう、羊たちを保護するように、
    私たちを保護する門として、
    イエスさまは来てくださいました。
    それは、門であるイエスさまを信じていれば、
    私たちは絶対に安全で、
    決して危険なことなど訪れない、
    不幸や不運に見舞われることなど決してない、
    という意味ではありません。
    イエスさまは、この世界において
    私たちの命を傷つけ、踏みにじる
    大きな原因となっている
    私たち人間の罪の支配から、
    私たちを救い出し、
    命の道へと導くために、
    来てくださいました。
    その意味で、イエスさまは
    罪の支配の下にある私たちを保護し、
    神の愛と憐れみのもとに置くことによって、
    私たちに命を与えるために来てくださいました。
    そう、イエスさまは罪の赦しを宣言し、
    私たちの傷ついたこの命が
    回復されるという希望を
    私たちに告げる門です。
    イエス・キリスト。
    この方こそが、私たちに
    神の救いと希望を与える門です。
    神の恵みが私たちに向かって
    大きく開かれるところです。


    このような私たち人間の救いを
    描くためだけであったならば、
    イエスさまのこのたとえ話に登場する門は、
    一方通行の門であれば良かったと思います。
    私たちが入りさえすれば
    豊かな命を得ることができる
    という一方通行の門か、
    神の恵みがすべての人に対して開かれる、
    というような一方通行の門を描けば、
    私たちの救いを描くことはできたでしょう。
    でも、興味深いことに、
    イエスさまは羊たちが門を
    出入りする様子を伝えました(9節)。
    つまり、一度だけ門である
    イエスさまを通れば良い
    という意味ではないようです。
    そう、単にイエスさまを通して、
    神の救いを受け取ることができる、
    といった意味のみを込めて、
    イエスさまはご自分が門である
    と言ったわけではないようです。
    何度も、何度も、
    囲いの中と外を出入りする。
    そのような門として、
    イエスさまはご自分のことを描きました。
    羊たちが出入りすることを
    伝えることによって、
    イエスさまは一体、
    どのような意味を込めたのでしょうか。


    皆さんはこれまでの人生の中で、
    きっと色々な門を
    くぐってきたかと思います。
    大抵の場合、門の中は入ってみないと、
    どのような空間が
    広がっているのかはわかりません。
    外側から覗き込んで、
    雰囲気を少しばかり
    知ることは出来るかもしれませんが、
    やはり限界があります。
    門をくぐるとき、
    門のその先の世界は明らかになります。
    そして、逆に、門の外へ出ていく時、
    外の世界が開けてきます。
    門、またはトンネルのようなものを用いて、
    世界観を一気に変えるような工夫は、
    色々な観光施設などで行われているので、
    皆さんも経験があるかもしれません。
    そう、私たちは門を通る時、
    世界が変化し、
    景色が移り変わる経験をします。
    門を出入りするたびに、
    景色は移り変わり、
    目の前に広がる世界は変化します。


    門であるイエスさまを通って、
    何度も出入りすることは、
    そういった変化を
    私たちが味わうことと似ています。
    もちろん、一人の人が門である
    イエスさまを通ることによって、
    世界全体がガラッと変わる、
    というわけではありません。
    変わっていくのは、
    私たちのこの目や心、
    そして私たち自身の生き方だと思います。
    門であるイエスさまを通って、
    出入りすることによって、
    私たちの世界の見つめ方が
    変えられていきます。
    門であるキリストを通して、
    神の愛や憐れみに触れ、
    神の愛や憐れみを知った私たちが、
    この世界を見つめる時、
    私たちにとって、この世界は決して
    まったく同じもので
    あることなどできません。
    神によって造られたこの世界に、
    さまざまな種類の食べ物や、
    多様性に満ちた動植物、人々のあり方に、
    そして、ありとあらゆる場所に、
    神の愛を感じ取ることが
    できないでしょうか。
    人間の弱さや儚さやその罪深さを
    目の当たりにするたびに、
    それでも私たちを諦めない神の姿に、
    神の憐れみを感じずにはいられません。
    ですから、門である
    主イエスとの出会いは、
    私たちにとって単に、
    神が提供してくださる救いへの
    入口ではありません。
    イエスさまを通して、
    神の愛と憐れみを知り、
    神の恵みのうちに日々造り変えられる。
    そんな私たち一人ひとりの命を
    更に豊かにし、養う出会いです。
    門であるイエスさまと歩むことを通して、
    移り変わっていく景色を楽しみながら、
    みなさんのこれからの信仰の旅路が
    神の守りのうちにあることを
    心から祈っています。

週報より

  • 2025.10.19 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に、小山祈りの家でピクニックを予定しています。
    賛美やゲーム、バーベキューなどをする予定です。
    もちろん、当日の飛び入り参加も大歓迎です。どなたでもご参加ください。
    参加費は無料です(自由献金あり)。

    ② 『モレノ』特別号へのご協力のお願い
    小山教会50周年の記念として、『モレノ』特別号を年内に発行予定です。
    特別号編集チームは、小山教会での思い出や、これからの教会への思いを
    綴った原稿を募集しています(400〜800文字程度、締切は10月末)。
    たくさんの方のご寄稿をお待ちしています。

    ③ 外壁塗装のための献金へのご協力のお願い
    私たちの教会はおよそ10年ごとに礼拝堂の外壁塗装を行っています。
    10月5日時点で、目標金額(145万円)まで残りおよそ50万円となりました。
    ご協力いただける方は、受付正面の壁にかけてある献金袋をご使用ください。

    ④ 今月に撮影した集合写真を受け取っていない方は牧師までお知らせください。

    ⑤ 11月2日の礼拝の中で召天者記念式を行います。
    わたしたちよりも先に、わたしたちの故郷である天の御国へと帰った方々を
    思い起こし、記念する時を持ちます。お写真がある方はご用意をお願いします。

    ⑥ 11月9日の礼拝の中で子ども祝福式を行います。
    対象は小学生以下のこどもたちです。どうぞご予定ください。
    また、礼拝後には聖書カルタ大会(子どもたちの自作)を予定しています。

    ⑦ 次の日曜日、基嗣牧師は国立教会の創立記念礼拝で説教のため不在です。
    小山教会の礼拝は石田学先生が担当します。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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