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朗読箇所

三位一体後第21主日

ホセア書 11:1–4

◆神の愛
1 まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
2 わたしが彼らを呼び出したのに
彼らはわたしから去って行き
バアルに犠牲をささげ
偶像に香をたいた。
3 エフライムの腕を支えて
歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを
彼らは知らなかった。
4 わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り
身をかがめて食べさせた。


ヨハネによる福音書 10:31–42


31 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。
32 すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」
33 ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
34 そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。
35 神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。
36 それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。
37 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。
38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」
39 そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。
40 イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。
41 多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」
42 そこでは、多くの人がイエスを信じた。

説教

主イエスがこだわったこと

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    きょう開いた福音書の物語は、
    とても物騒な始まり方をします。
    イエスさまを取り囲んで、
    イエスさまに質問をしていた
    ユダヤの宗教指導者たちは
    石を手に取って、握りしめています。
    今にもその石を
    イエスさまに向かって
    力強く投げてしまいそうな
    とても緊迫した場面です。
    ユダヤの宗教指導者たちが
    このような態度を取っているのは、
    イエスさまが神への冒涜とも
    受け取れるような発言をしたからでした。


    「私と父とは一つである。」(30節)
    これが彼らから問題視された、
    イエスさまの発言でした。
    神を父と呼ぶことは、
    ユダヤ人たちの先祖である、
    古代イスラエルからの伝統でした。
    ですから、このイエスさまの発言は、
    自分と父なる神を同一視するもの
    として受け止められました。
    私たちキリスト教会もそうですが、
    古代のユダヤ人たちは、
    神はひとりだと信じていました。
    ですから、自分を神と
    同一視しているように聞こえるその発言は、
    自分を人間ではなく、神の位置に置き、
    神の存在と並ぼうとする、
    とても問題のある発言として
    ユダヤの宗教指導者たちには聞こえました。
    そう、彼らにとって
    イエスさまのその発言はまさに
    神への冒涜でした。


    ただ、「私と父とは一つである」と
    発言をしたイエスさま自身は、
    自分と神とを完全に同一視することを
    伝えようとしたわけではなかったでしょう。
    というのも、イエスさまは、
    自分の行っていることが
    どのようなものであるかを
    見て欲しいと何度も伝えています。
    神が願っている働きを
    自分は行おうとしているんだと、
    イエスさまは伝え続けています。
    ですから、その意味で、
    自分と神はひとつであるという
    イエスさまのこの発言の趣旨は、
    思いにおいて、神とひとつである
    ということなのでしょう。


    神の願いを自分自身の願いとして
    受け止めて、行動へと移していく。
    それは、信仰者たちが
    いつの時代も願ってきたことです。
    この世界に蔓延る、
    人間同士の衝突や争い、
    憎しみや妬みに
    私たち自身も加わっていくことは、
    平和の神が願うことではありません。
    そうではなく、そのような世界において、
    お互いのことを知り、
    憐れみの心を忘れないで関わり合い、
    平和や和解を願って手を取り合う。
    そういった、神が願っていることに、
    私たちの心を重ね合わせながら、
    行動することこそ、
    歴史上の信仰者たちが
    願い続けてきたことです。
    その意味で、イエスさまのこの発言が、
    思いにおいて、神とひとつであることを
    伝えようとしたものならば、
    イエスさまのこの言葉は
    自然に受け止められる発言ですし、
    何よりも、私たち自身も
    真剣に願い求めていきたいことだと
    思わされます。
    神が愛に溢れているように、
    私たちも出会う人たちや、
    この世界に愛情をもって
    関わりたいものです。
    神が不正を嫌い、公正を願うように、
    社会の不正義や不平等、
    差別や抑圧に対して、
    私たちは声を挙げるもので
    ありたいと願っています。
    神が憐れみに満ち、
    恵みに溢れた方であるように、
    私たちも共に生きる人たち、
    特に苦しみ、悲しんでいる人たちへの
    憐れみを忘れずに歩みたいと
    日々、願っています。
    そのようにして、
    神の願いと私の願いを重ね合わせ、
    ひとつとすることを願って
    日々の生活を送ることは、
    私たちの願いです。
    イエスさまは私たちの
    そのような願いを代弁し、
    イエスさま自身がそんな生き方が
    私たちにも可能であることを
    身をもって示しているかのようです。


    ただ、残念ながら、
    イエスさまのこの発言は、
    イエスさまが意図した通りに
    ユダヤの宗教指導者たちには
    届きませんでした。
    彼らにとって、イエスさまのこの発言は、
    神への冒涜として響いてしまいました。
    そのため、彼らは
    イエスさまに向かって
    投げつけるために、
    石を手に取りました。


    イエスさまの発言が
    誤解されたことは明らかです。
    けれども、イエスさまは自分の発言を
    取り下げることはしません。
    人となられた神の子であるイエスさまにとって、
    彼らの勘違いもまた真実です。
    ですから、この発言を撤回することは、
    偽りを述べることに
    なってしまうからなのでしょう。
    イエスさまはむしろ、
    石を手に握るユダヤ人たちに、
    旧約聖書の言葉を思い起こさせて、
    自分の語ることの正当性を
    伝えようとしました。
    その際、イエスさまは「私は言った。
    あなたがたは神々である」(34節)という
    詩編の言葉を用いました(詩編82:6)。
    この時イエスさまが用いたこの言葉は、
    私たちがきょうの礼拝の中で
    一緒に声を合わせて読んだ
    詩編82篇の一部でした。
    ひとりの神を信じる
    古代イスラエルにおいて生み出された
    旧約聖書の中に、
    「あなたがたは神々である」という、
    発言があるのは
    不思議なことに思えるかもしれません。
    この神々が何を指すのかについて、
    いくつか可能性はあるのですが、
    ここでは、王さまのような
    政治的指導者たちを指して
    「神々」という言葉が
    用いられているのでしょう。
    古代世界の中で、王たちは、
    神の子として扱われました。
    そのため、彼らに対して、
    神々という呼びかけがあっても
    不思議ではありません。
    また、詩編82篇において、
    神々と呼ばれる人たちは、
    非難の対象です。
    社会的に弱い立場である人たちや
    経済的に苦しい状況にある人たち、
    そして親を失った
    寄る辺のない子どもたちに、
    正しい裁きを行わないと、
    彼らは伝えられています。
    そのため、王のような立場にある人たちを
    この詩編は皮肉って、神々と呼び、
    非難の言葉を伝えているのでしょう。
    皮肉る言葉であったとはいえ、
    王たちを「神々」と呼ぶ発言が
    記録されています。
    ということは、古代世界において、
    王たちを神々と呼ぶことは、
    神への侮辱としては
    受け止められなかったのでしょう。
    王たちは神の代理人として
    正義と平和を求めた行動をすることが
    求められていたからです。


    このように、詩編において、
    王たちに向かって
    神々や神の子という言葉が
    用いられることが許されています。
    そのことを確認した上で、イエスさまは、
    神の言葉を受け止めている人たちが
    「神々」と呼ばれる人たちなのだと、
    定義づけました。
    その定義づけに従うならば、
    神の言葉を受け止めて行動する自分が
    神の子であると言ったとしても、
    それは問題ないことでしょと、
    イエスさまはここで伝えているのです。


    このようにして、イエスさまは
    神への冒涜として受け止められた
    自分の発言についての弁明をしました。
    このイエスさまの発言の面白いところは、
    やはり詩編82篇を
    引用したことにあります。
    詩編82篇では、神々は
    死ぬべき存在として
    位置づけられています(詩編 82:7)。
    つまり、王たちは
    死ぬべき人間にすぎないと、
    詩人は伝えているわけです。
    ですから、イエスさまは
    自分と神とのつながりを
    伝えているようにも見えますが、
    それ以上に、この詩編を用いることによって、
    自分が人間であることを
    強調しているようにも見えてきます。
    どういうことでしょうか。
    それは、彼らが受け止めたこととは、
    正反対の主張さえも
    込められているということです。
    それは、神の子であるイエスさまが、
    死ぬべき人間となったということです。
    そう、イエスさまは
    ご自分が神であることに
    決して固執することはありませんでした。
    むしろ、イエスさまは
    私たちと同じ人となり、
    私たちが抱える悩みや苦しみを知り、
    困難を共に味わい、
    共に生きることに
    固執し、こだわりました。
    それはまさに、神ご自身が
    願ったことそのものでした。
    私たちと共に生きることを
    心から願った神は、
    イエスさまを私たちのもとに
    遣わしてくださいました。


    それはイエスさまが引用した、
    詩編82篇をうたった詩人の叫び声に
    応えるかのような行動でした。
    詩人は当時の社会の中で
    苦しむ人々、虐げられている人々の
    声に耳を傾けながら、
    神の憐れみや平和の訪れを願っています。
    そして、「彼らは知らず、悟らず
    闇の中をさまよう。
    地の基はことごとく
    揺らいでいる」(詩編 82:5)と訴えます。
    自分の世界が揺れ動き、
    立ち続けることも難しいほどに、
    心も、身体も、打ちのめされている。
    そのような人々の姿を描き、
    詩人は訴えます。
    神が人となり、私たちと共に生きることに
    固執し、そこにこだわったのは、
    私たちがそのような叫び声を
    上げ続けているからです。
    声にもならないうめき声に
    耳を傾けるほどに、
    神が私たちを愛し、
    慈しんでくださっているからです。
    私たちが日常的に抱える叫びも、
    悩みも、嘆きも、受け止めるために。
    そんな私たちを支え、共に歩むために、
    イエスさまは私たちのもとに
    来てくださいました。


    このようなイエスさまの
    こだわりに触れるとき、
    神の願いを受け止める私たちは、
    一体何にこだわるべきなのかを
    改めて考えさせられます。
    それは、正しさに
    固執することではないでしょう。
    むしろ、私たちが目を向けるべきなのは、
    神が私たちの叫び声やうめき声に
    耳を傾けてくださったという事実です。
    イエスさまが手を差し伸べて、
    神の愛や憐れみを届けてくださったように、
    私たちも叫び声やうめき声が広がる場所に、
    神の愛や憐れみが届くことを願います。
    それは私たちの祈りであり、
    また教会が呼びかけられている
    働きだと思うのです。
    私たちは、この世界の叫びや
    うめき声に耳を傾け、
    共に祈りを積み重ねていく共同体です。
    イエスさまが様々な人たちに歩み寄り、
    共に生きたように、
    私たちはたとえ立場が違っても、
    考え方が異なっても、
    お互いの間に壁を作るのではなく、
    お互いに歩み寄って、手を取り合うことを
    選び続ける共同体です。
    そして、ここに集う一人ひとりの働きや
    日常の歩みを通して、イエスさまは伴い、
    私たちを通して、私たちの日常に、
    愛や憐れみを届けてくださいます。
    イエスさまが私たちに歩み寄り、
    愛し抜くことにこだわり、固執したことを
    私たちは知っているからこそ、
    私たちもイエスさまのように、
    共に生きる人たちを慈しみ、愛をもって、
    平和のうちに生きる道を
    選び続けていきたいと思うのです。
    神の子が人となってまで
    私たちに寄り添い、
    愛し抜くことを選びました。
    どうか、そんなイエスさまのこだわりを
    心から受け止めて、
    私たち自身のこだわりとし、
    愛や憐れみや平和への思いを
    育んでいくことができますように。

週報より

  • 2025.11.09 週報より抜粋・要約

  • ① きょうの礼拝後、ティータイムの後にリース作りの会を予定しています。
    ご自宅用のクリスマス・リースを作ります。どなたでもお気軽にご参加ください。

    ② 次週の礼拝は、稲葉奈々神学生(日本ナザレン神学校2年)が説教を担当します。
    準備のために祈りに覚えていただけたら幸いです。

    ③ 次週礼拝後、ランチの会とクリスマスの飾り付け・大掃除を予定しています。
    ランチの会のメニューはシチューです。
    ランチの会後の大掃除では、付属館の1階の片付けも予定しています。
    みなさまのご協力をよろしくお願いいたします。

    ④ 外壁塗装のための献金へご協力お願いします。
    11月1日(土)より礼拝堂と付属館の外壁塗装工事が始まりました。
    今回の外壁塗装のための献金にご協力いただける方は、
    受付正面の壁にかけてある献金袋や予約献金の申込用紙をご利用ください。
    外壁塗装の献金は目標金額(145万円)まで残りおよそ36万円です。

    ⑤ 日本ナザレン教団の広報紙、新報とふくいんのデータ受け取りが可能です。
    メールでの受け取り希望の方は牧師までお知らせください。

    ⑥ ナザレン教団の有志の方による通訳練習会の合宿が開催されます。
    22日(土)から23日(日)に、小山教会を会場として開催されます。
    見学なども大歓迎です。興味のある方は牧師までお知らせください。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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