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朗読箇所

三位一体後第16主日

エゼキエル書36:25−27

◆イスラエルの山々に向かって
25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。
26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。


新約 ローマの信徒への手紙7:1−6

◆結婚の比喩
1 それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。
2 結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。
3 従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。
4 ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。
5 わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
6 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

説教

主に仕えるという新しい生き方

音声を聴く

  • 説教者  石田学 牧師

     

    どの世界にも「専門用語」があります。
    部外者にはほとんど通じない言葉。
    いわゆる「業界用語」です。
    これがキリスト教の世界にも多くあります。
    牧師はもちろん、皆さまの中にも、
    長く教会生活を続けて来られた方にとっては、
    知っていて当然の、
    当たり前の言葉と思っていても、
    一般の人には案外と知られていない。
    そういった言葉が多々あります。
    週報、頌栄、兄弟姉妹、御心、みわざ、証、
    他にもたくさんあります。
    「律法」もその代表的な一つです。
    福音書にもパウロの手紙にも、
    容赦なく「律法」とか「律法学者」
    といった用語が出て来ます。
    あまりに多く出て来るので、
    普通の言葉だと思いがちですが、
    実は改めて聞かれると、
    よくわかっているという方は少ないです。
    いちおう聖書の研究を専門にしてきた、
    わたしにとっても難しい言葉ですから。
    なぜ「律法」が難しいのか。
    それは教会でしか聞かない言葉だからです。
    もともと律法とは、
    ユダヤ教の法規定、
    狭い意味では旧約聖書の五文書を指す、
    きわめて特殊な専門用語です。
    大多数の日本人は生涯触れることのない言葉。
    もし律法という言葉に遭遇するとしたら、
    キリスト教や、あるいはユダヤ教に触れて、
    そのとき始めて聞く単語です。
    だから、きょうの聖書箇所は難しいです。
    パウロはこう書き始めるのですから。
    「わたしは律法を知っている人々に
    話しているのですが」と。
    律法って何?
    それがほとんどの人の率直な感想です。
    ここでひっかかってしまうと、
    そこから先に進むことができません。
    そもそも、律法という言葉はどこから来たのか。
    幾つか説があるようですが、
    どうやら聖書が中国語に訳されたとき、
    ユダヤの聖なる法律を指す、
    トーラーというヘブライ語の訳語として、
    つまり最初から特殊な専門用語として、
    中国で作られた言葉のようです。
    それが聖書を日本語にするとき、
    日本語聖書にも持ち込まれ、
    現代に至るまで律法として表記されています。
    英語の場合はどう訳しているのでしょうか。
    Law(法律)。
    普通の法律を指す言葉と同じです。
    わかりやすい普通の単語です。
    日本語でも法律としたらよかったかどうか、
    わたしにはわかりません。
    たしかにパウロもここで、
    第一にはユダヤの神聖な法律を指しています。
    しかし、ユダヤ教の特別な戒律だけでなく、
    もっと広い意味で用いているのは確かです。
    これまでにパウロは、
    律法を持たない非ユダヤ人も、
    律法を自然におこなうなら、
    律法の事柄が心に記されていると述べています。
    ここでパウロが律法と言う場合、
    狭い意味でのユダヤの戒律だけでなく、
    人類に普遍的な善と義についての、
    知恵もしくは知識を意味しているはずです。
    具体的な内容には多様性があるにせよ、
    人類に共通するなにがしかの普遍的な戒めを、
    パウロは念頭に置いていると思います。
    人はどの時代であれ、どの文化であれ、
    善悪の判断をおこない、
    義と不義の知識を持っています。
    そうした知識や知恵を、
    人々は家族や社会の中で教わり、
    また次の時代の人々に教え、
    社会の秩序と安全と平和を維持しています。
    善を生きることの大切さは、
    生まれながらに備わっている知識ではなく、
    教えられ、示されることで、
    善を生きることの大切さを知るようになります。
    その意味で、人は誰でも、
    たとえユダヤの戒律を知らなくても、
    誰でもすべて神の戒めの下にある。
    それがパウロの確信する人間理解であり、
    律法理解でした。
    その意味で、律法あるいは法的な戒めは、
    人と人との関係をどう生きるかということと、
    神との関係をどう生きるべきかということ、
    この二つの関係性を定めるものです
    別の言い方をするなら、
    法は、あるいは律法は、
    生きている人間に対しての戒めです。
    人が生きるうえでの、
    人と神との関係、
    人と人とのを示すものです。
    だからあるときイエス様は、
    人が律法のためにあるのではなく、
    律法が人のためにあるのだということを、
    安息日の規定を例として教えました。
    (マルコ福音書2章)
    パウロは律法にせよ、人の良心にせよ、
    生きている人に対しての、
    生きている間効力のある戒めであることを、
    律法の結婚規定を例として説明します。
    ユダヤの律法はもちろん、
    ほとんどの法律によれば、
    結婚は二人が生きている間、
    二人を支配する規定です。
    二人が生きているかぎり、
    二人は聖なるきずなで結ばれています。
    しかし、どちらか片方が死ねば、
    生きている人のための規定である、
    法律の婚姻規定から自由になる。
    パウロはそう言います。
    だから配偶者と死別するなら、
    その律法から自由となるので、
    別の人と結婚しても違法ではありません。
    さて、いったいパウロはなぜ、
    何が言いたくてこんな義論をするのでしょう。
    結婚についての定めは、
    律法によって規定されていました。
    もし法的に規定されていないなら、
    結婚ということではなく、
    誰かと誰かがいっしょに暮らしている、
    というだけのことです。
    律法の定めに基づくから、
    その結婚は律法の定める、
    聖なる関係となります。
    その義論をパウロがするのは、
    人が分かちがたく一体となって、
    強いきずなで結ばれている「何か」が、
    存在しているからです。
    パウロはそれが罪だと断定します。
    人は誰も皆、罪の支配の下にあり、
    罪に拘束され、罪の奴隷とされている。
    その事実をパウロは述べてきました。
    律法を知らず、法がどう定めているかを、
    知ることがなく教わりもしなければ、
    罪に支配されている自覚も生じません。
    自分は自由だと思い込んでいることでしょう。
    律法がその事実を明らかにするのです。
    律法は、人が神の下にではなく、
    罪の支配の下にある現実を顕わにします。
    律法が人を罪人にするのではありません。
    律法が罪の支配を明らかにするのです。
    たいていの人は、
    わたしはそんなに悪くない、
    どちらかと言えば良い人間だと考えています。
    それは犯罪や悪事を罪と思うからです。
    聖書もパウロも、
    人が罪人だということを、
    そのようには教えていません。
    罪とは神から離れた人間の状態です。
    神と断絶していることが罪です。
    人は神を離れて罪と結ばれ、
    罪と一体になってしまっています。
    残念ながら中立はあり得ません。
    神のしもべであるか罪の奴隷であるか、
    その二者択一であり、
    人は自由にどちらかを選べることはなく、
    最初から罪の奴隷です。
    生まれながらの奴隷は、
    自分が奴隷とされている事実を教えられ、
    その時はじめて自分の真実の境遇を知ります。
    人が罪の奴隷であることを明らかにするのが、
    律法のすることです。
    では、人はどのようにして、
    罪の奴隷であるという事実から、
    解放され自由になれるのでしょうか。
    自分の意志の力や努力は無力です。
    修行や自己鍛錬で罪の奴隷を止めることは、
    誰にもできません。
    ここでわたしたちはあることに気付かされます。
    なぜパウロが律法の結婚規定を例として、
    律法からの自由を説明したか、
    その理由に気付かされることでしょう。
    死んだ者は、律法の定めから自由にされる。
    その事実です。
    夫が死ねば、妻は律法から自由になる。
    同じことです。
    一体とされている罪に対して死ねば、
    律法に対しては死んだ者となる。
    罪に対して死ねば。
    それはわたしたちにできるのでしょうか。
    ただ死んだだけであれば、
    その死は罪が奴隷に対して与える、
    究極の報酬でしかありません。
    つまり、わたしたちが自分で死んでも、
    罪に対して死ぬことはできません。
    人には不可能です。
    ただ一人を除いて。
    神の独り子イエス・キリストが、
    十字架の上で死なれたとき、
    その死は罪に対しての死となりました。
    キリストの死もまた、
    罪が支払った恐怖の報酬なのでしょうか。
    いいえ。
    罪の報酬である死は、
    その死が最終的なものであるとき、
    恐ろしい報酬となります。
    キリストがよみがえられたことにより、
    死は無力となりました。
    生きている者を支配する律法は、
    死ねば支配力を持たなくなります。
    復活の主キリストは、
    もはや死の支配のもとにはなく、
    神の支配のもとにあります。
    その事実が、
    罪に対して死んだキリストの体と、
    信仰のきずなにより結ばれている、
    わたしたちにも事実となる。
    パウロはそのことを語るのです。
    キリストにあるなら、
    罪との一体性から解放され、
    キリストと一体にされている。
    もはやわたしたちは罪と一つではなく、
    キリストと一つにされています。
    かつて罪の奴隷であることを宣告した律法は、
    いまやわたしたちが、
    キリストと共に罪に対して死んだ者であり、
    それゆえ罪から解放されていることを証言します。
    律法の意味合いが異なってくるのです。
    罪の奴隷であることを宣告した律法が、
    いまやわたしたちにとって、
    罪から自由にされた者としての、
    生き方の道しるべとなります。
    わたしたちの古い生き方は、
    罪の奴隷として罪に仕える生き方でした。
    しかもそれは、有無を言わさぬ、
    わたしたちが抗うことのできない、
    強制的な生き方でした。
    しかし今は、
    神の霊に従って生きる、
    主に仕えるという喜ばしい、
    新しい生き方を、
    わたしたちは生きることができるのです。
    キリストの時代よりもはるか昔、
    預言者エゼキエルは来たるべき救い主による、
    新しい生き方の幻を人々に告げ知らせました。
    バプテスマ、洗礼を予兆しているかのように。
    エゼキエルはこう語ります。


    わたしが清い水を
    お前たちの上に振りかけるとき、 
    お前たちは清められる。
    わたしはお前たちを、
    すべての汚れと
    すべての偶像から清める。
    わたしはお前たちに
    新しい心を与え、
    お前たちの中に新しい霊を置く。
    わたしはお前たちの体から
    石の心を取り除き、
    肉の心を与える。
    また、わたしの霊を
    お前たちの中に置き、
    わたしの掟に従って歩ませ、
    わたしの裁きを守り行わせる。
    (エゼキエル36:25-27)


    パウロがずっと後の時代に、
    ローマの人々に宛てて書き送ったことと、
    なんと同じであることでしょう。


週報より

  • 2022.10.02 週報より抜粋・要約

  • ・きょうはティータイム後に
    月例教会役員会を開きます。
    教会役員の皆さまは
    付属館にいらしてください。   
    おもな議題は16日に開催予定の
    教会全体会の準備と、
    月例の諸報告承認、
    クリスマス季節の予定などです。
    役員会へのご提案、
    ご意見などがありましたら
    おしらせください。

    ・あすは神学校関連の集会・会議があります。
    午前9時から神学校理事会があります。
    10時から15時まで
    神学校研修会が開かれます。   
    稲葉基嗣先生が午前中に
    エゼキエル書からの講演をおこない、
    午後は仙台の阿部頌栄先生が
    ウェスレーについて講演をします。
    午後3時から4時まで
    神学校教授会が開かれます。   
    他の教師・神学生は神学校に行きますが、
    学牧師はオンライン参加です。

    ・教会全体会(中間総会)のお知らせ
    わたしたちの教会は
    10月16日(第三日曜日)の礼拝後に、
    教会全体会(中間総会)を開催いたします。 
    8月末時点までの中間報告と
    これからの予定を話し合い、
    別館リフォーム会計の報告をいたします。
    新しく刊行された
    『聖書協会共同訳』聖書の紹介を、
    当日のランチの会は、
    「お楽しみ食事会」です。       
    皆さまどうぞ出席をご予定ください。

    ・パキスタン水害の様子が
    パネル写真でご覧いただけます。
    これまでに17,000円の募金があり、
    きょうの募金を加えて送ります。

    ・10月はナザレン教会の伝道月間です。
    教団の伝道の働きのため、
    伝道月間献金にご協力ください。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)

    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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