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朗読箇所

聖霊降臨祭

旧約 アモス書 5:18–27

◆悲しみの歌
18 災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。
19 人が獅子の前から逃れても熊に会い
家にたどりついても
壁に手で寄りかかると
その手を蛇にかまれるようなものだ。
20 主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。

◆祭りにまさる正義
21 わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。
22 たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても
穀物の献げ物をささげても
わたしは受け入れず
肥えた動物の献げ物も顧みない。
23 お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。
24 正義を洪水のように
恵みの業を大河のように
尽きることなく流れさせよ。
25 イスラエルの家よ
かつて四十年の間、荒れ野にいたとき
お前たちはわたしに
いけにえや献げ物をささげただろうか。
26 今、お前たちは王として仰ぐ偶像の御輿や
神として仰ぐ星、偶像ケワンを担ぎ回っている。それはお前たちが勝手に造ったものだ。
27 わたしは、お前たちを捕囚として
ダマスコのかなたの地に連れ去らせると
主は言われる。その御名は万軍の神。


新約 ヨハネによる福音書 7:37–39

◆生きた水の流れ
37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

説教

公正と正義が水のように流れ続けるならば

音声は準備中です

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    聖書で描かれている世界と
    わたしたちの生きる現代の世界は明らかに違います。
    この日本という国で聖書を読むとき、
    どれほど違いがあるのかとしばしば考えます。
    まず、使われる言葉が違いますね。
    アモス書が書かれた言語は
    日本語ではなく、ヘブライ語です。
    ですから、「災いあれ」と訳されている言葉が、
    「ホイ!」という嘆きの言葉で、
    まるで叫び声やうめき声のように発せられていることは、
    誰かに教えてもらうか、
    ヘブライ語で聖書を読んでみないと気づきにくいことです。
    また、わたしたちとアモスの時代に生きた人々とでは
    前提として持っている知識が違います。
    「主の日」と言われても、
    わたしたちはあまりピンときません。
    でも、アモスの時代の人々にとって、
    「主の日」とは、希望を感じさせる言葉でした。
    それは、神が苦しんでいる人を救い出す日でした。
    ですから、イスラエルの人々は希望をもって、
    この日を待ち望みました。
    でも、アモスは真逆のことを言います。
    主の日は光ではなく、闇だと。
    主の日とは、人々に希望を感じさせる日ではなく、
    神が裁きを行う日だと言うのだから、
    アモスの言葉を聞いた人々は
    大きなショックを受けたはずです。

    それと同じくらい衝撃的なイメージを
    アモスはその後に語ります。
    ただ、地理的な環境の違いから、
    この言葉の衝撃は
    私たちにとってわかりにくいものだと思います。
    アモスは言います。
    「公正を水のように
    正義を大河のように
    尽きることなく流れさせよ。」(アモス5:24)
    日本で生活をしていると、
    水は簡単に手に入ります。
    川は常に水があり、常に流れ続けています。
    でも、預言者アモスが活動をした
    北王国イスラエルがあったパレスティナの地は、
    日本のような土地ではありません。
    土地は乾いています。
    水は簡単には手に入りません。
    川は常に水が流れているわけではありませんでした。
    この地域の川はヨルダン川とその支流を除くと、
    雨が降る時期以外は涸れてしまう
    ワディと呼ばれる川です。
    このワディという川は、
    実はわたしたちがよく礼拝の中で歌う
    賛美歌の中に出てきます。
    「谷川の流れを慕う鹿のように」。
    あの曲の中で歌われている川は、
    常に水が流れている川ではありません。
    雨季に大量の雨が降らないと水が流れない、
    普段は乾き切っている川です。
    そんな普段は涸れてしまっている川で、
    水をひたすら求めてあえいでいる鹿のように、
    わたしの魂はかわいていて、
    神をひたすらに求め続けていると、
    この賛美歌のもとになっている詩編で
    詩人はうたっています。

    公正が水のようにと語られたとき、
    イスラエルの民はどのような情景を想像したでしょうか。
    普段は乾ききっている土地で暮らす人たちにとって、
    水はとても貴重で、命を左右するものです。
    そのため、公正さが水にたとえられているということは、
    まさに、公正さがイスラエルの社会にとって
    命を左右するほどにとても重要で、
    必要なものだったことを意味するでしょう。
    でも、彼らにとって川とはワディです。
    普段は、雨季以外の時期は、乾ききっています。
    つまり、公正や正義が見当たらない、
    乾ききった、腐敗した社会を
    イスラエルの民は想像したと思います。
    いやむしろ、自分たちの今の現状こそが
    それだと感じたでしょう。
    実際、そのようなイスラエルの社会に対して
    預言者アモスは語りかけています。
    公正さや正義がないから、
    政治も、経済も、礼拝も腐敗してしまっている。
    誰もが正義の実現を諦めきってしまっている。
    そんなイスラエルの社会に向かって、
    アモスは語りかけました。

    だからこそ、当時の人々がアモスの言葉に
    衝撃を受けたのは間違いありません。
    というのも、公正と正義を絶え間なく流れさせよと
    アモスは語りかけているからです。
    イスラエルの人々にとって、
    川はヨルダン川を除けば、
    常に流れているものではありません。
    普段は乾ききっています。
    雨季という一定の期間のみ、期間限定で、
    ワディは水で溢れました。
    同じように、一時的な正義ならば期待できました。
    でも、常に、正義が期待できるなんて思いもしません。
    だから、アモスの言葉は衝撃でした。
    正義と公正が水のように、大河のように、
    尽きることなくこの社会に流れてくる。

    それは、まさに洪水のようなものでした。
    実際、正義や正しさは時として暴力的です。
    正しさに触れる時、
    自分の誤りを認めて、
    あるべき状態に正さなければいけないのですから。
    でも、神の正義が、洪水のように
    イスラエルの社会に押し寄せる必要がありました。
    搾取を、腐敗を、抑圧を、偽りの証言を、
    巧妙に人からお金をだまし取ることを
    神の正義が洪水のように押し寄せることによって、
    イスラエルの社会とそこで生きる人々が
    正される必要がありました。

    古代の社会において、
    洪水は単なる災害ではありません。
    それは恵みをもたらすものです。
    普段、乾ききっている土地に水をもたらし、
    栄養のない大地に、たくさんの栄養をもたらし、
    洪水によって潤った土地で
    作物が育つ可能性を与えるからです。
    同じように、神の正義と公正が洪水のように
    決して止まることなく
    わたしたちのもとにやってくるならば、
    それは今、この社会で苦しんでいる人にとって希望です。
    今の現状に嘆く人にとって喜びです。

    それでは一体、
    神の正義はわたしたちの日常に、わたしたちの社会に、
    どのようにもたらされるというのでしょうか。
    きょう開いた福音書の言葉に目を向けてみましょう。
    イエスさまはこう語られました。
    「私を信じる者は、聖書が語ったとおり、
    その人の内から生ける水が
    川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)
    イエスさまは聖霊のことを言ったと、
    ヨハネは続けて書いています。
    きょうは聖霊降臨祭です。
    神がわたしたちに助け主であり、慰め主である
    聖霊をわたしたちひとりひとりに、
    そして教会に与えてくださったことを
    喜びお祝いする日です。
    水は聖霊の象徴です。
    聖霊にあって、神がわたしたちと共にいて、
    聖霊を通して、神の愛や憐れみが
    私たちから流れ出ていく。
    イエスさまの言葉は、
    わたしたちに与えられているそのように
    驚くべき霊的な現実を思い起こさせてくれます。
    水のように、聖霊がわたしたち一人ひとりに臨み、
    聖霊を通して、わたしたち一人ひとりから
    神の愛や憐れみが流れ出るならば、
    同じように、神の正義や公正は
    わたしたちから聖霊を通して流れ出ていくことを
    神は望んでいるに違いありません。
    神は、わたしたち自身の日々の生活を通して、
    この世界に公正と正義を広げようと願っています。
    気をつけたいのは、
    私たちは自分の正義を暴力的に
    振りかざすことがしばしばあることです。
    誰かにとっての正しさは、
    誰かにとっての過ちであることはありがちです。
    だから、わたしたちは、
    神が良しとされ、神が喜ばれることを求めながら、
    正義と平和のために声を上げ、
    自分たちにできることを
    積み重ねていきたいと思うのです。
    神が良しとされること、神が喜ばれることが、
    この世界に広がっていくために、
    絶え間なく流れる水のように浸透していくために、
    神がわたしたちを用いてくださることは
    わたしたちの心からの願いです。

    ところで、公正や正義が語られるときに、
    水が比喩として用いられていることに、
    わたしは大きな希望を感じます。
    水は、狭いところにでも、
    入り込んでいくことができるものです。
    また、水は、時間をかけて
    あらゆる場所に浸透していきます。
    そうであるならば、
    神の正義や公正は、
    わたしたちが簡単に諦めてしまうような領域にも
    少しずつ染み込み、少しずつ行き渡っていくはずです。
    わたしたちひとりひとりを通して。
    ですから、水のように絶え間なく
    聖霊を通してわたしたちから流れ出る神の正義が、
    少しずつでも良いから、
    みなさんの日常に、わたしたちの暮らす社会に
    染み渡っていきますように。
    神ご自身は、その流れを決して途絶えさせない方です。
    だから、私たちは聖霊を通して与えられる
    その流れを決して堰き止めず、
    正義を水のようにこの世界に浸透させたいと願っている
    聖霊の働きに押し出されて歩んでいきましょう。
    公正を水のように、
    正義を大河のように、
    尽きることなく
    この世界に流れさせてくださいと願いながら。

週報より

  • 2023.05.28 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは聖霊降臨祭(ペンテコステ)です。
    イエス・キリストが天に昇られた後、主イエスによって約束された通り、
    聖霊が弟子たちに与えられました。
    聖霊はわたしたちとキリストをつなぐきずなです。
    きょうは、助け主であり、慰め主である聖霊が
    わたしたちに与えられていることを喜び祝う日です。

    ② メディアチームのミーティングを6月に延期します。
    ティータイムの後にメディアチームの短い集まりを予定していましたが、
    基嗣牧師の体調不良により、6月に延期します。

    ③ 月報『モレノ』6月号が完成しました。
    寄稿・投稿してくださった方、製本・編集に加わってくださった方、
    ありがとうございました。
    表紙・裏表紙の絵、挿絵、写真、原稿などを募集しています。
    手渡しでも、データでも受け付けています。
    なんでも、お気軽にご寄稿ください。

    ④ 来週の礼拝後に月例役員会をおこないます。
    教会役員のみなさまはよろしくお願いいたします。
    おもな議題は、クリーンアップデイとこども1日キャンプについてです。
    役員会で話し合ってほしいことがある方は、
    牧師または役員までお知らせください。

    ⑤ 石田学先生の著書『第一ペトロを読む』が出版されました。
    学先生が小山教会で語ったペトロの手紙第一からの説教と
    その準備として行った聖書研究をまとめた著作です。
    購入を希望される方は学牧師までお知らせください。
    なお、売上は教会別館リフォーム献金となります。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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