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朗読箇所

三位一体後第21主日

イザヤ書 35:1–10

◆栄光の回復
1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
2 花を咲かせ
大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ
カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
3 弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
4 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
5 そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
6 そのとき
歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
7 熱した砂地は湖となり
乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは
葦やパピルスの茂るところとなる。
8 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ
汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ
愚か者がそこに迷い入ることはない。
9 そこに、獅子はおらず
獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み
10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて
喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え
嘆きと悲しみは逃げ去る。


ヨハネによる福音書 10:19–30

◆「羊の囲い」のたとえ
19 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。
20 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」
21 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」
◆ユダヤ人、イエスを拒絶する
22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。
23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。
24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。
27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。
30 わたしと父とは一つである。」

説教

どうやって主イエスの行いを見つめることができるの?

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    昨夜、いつも書籍を注文している
    キリスト教系の出版社から、
    2026年のカレンダーが届きました。
    そう、つい1ヶ月ほど前まで
    まだまだ暑いなと思っていたのに、
    いつの間にか、次の年のことを
    考え始める時期になってしまいました。
    キリスト教会は、今月末から
    新しい一年を迎えます。
    イエス・キリストの誕生をお祝いする
    クリスマスを迎える4つ前の日曜日から、
    待降節(アドヴェント)と
    呼ばれる期間に入ります。
    キリスト教会は、そのアドヴェントの時期を
    教会の暦の1年の始まりとしています。
    ですから、私たちは教会の暦においては、
    今月末には新しい年を迎えて、
    クリスマスをお祝いすることになります。
    私たちがクリスマスをお祝いする時期、
    ユダヤ教ではハヌカという
    お祭りが開催されます。
    紀元前2世紀に、ユダヤ人たちが
    自分たちの神殿をギリシア人の手から
    取り戻したことを記念するお祭りでした。


    さきほど読んだヨハネによる福音書で、
    ヨハネは「エルサレムで
    神殿奉献記念祭が行われた」(22節)
    と書いています。
    まさにハヌカの時期に起こった出来事を
    ヨハネは記録しています。
    ハヌカのお祭りの時期に、
    エルサレム神殿の東側にある、
    ソロモンの回廊と呼ばれる
    屋根付きの通路を
    イエスさまが歩いていた時、
    イエスさまは突然、
    人々に取り囲まれました。
    ヨハネは、この時に
    イエスさまを取り囲んだ人々について、
    ユダヤ人たちと書いていますが、
    ユダヤの宗教指導者たちのことだと
    考えられます。
    彼らはイエスさまに向かって、
    口々に言いました。
    「いつまで私たちに気をもませるのか。
    もしメシアなら、
    はっきりそう言いなさい。」(24節)
    メシアとは、ユダヤ人たちが
    待ち望み続けた
    救い主のことです。
    ユダヤの国を他の民族からの
    支配から解放し、国を再建させる、
    力強い王のような存在をメシアと呼び、
    彼らは待ち望んでいました。
    様々な教えを語り、
    病人を癒す奇跡を起こすような
    イエスさまのことを耳にしたとき、
    また実際にイエスさまと出会ったとき、
    一部のユダヤ人たちは
    神が自分たちのもとに
    メシアを送ってくださったと
    実感しました。
    でも、やはり確信が持てないのです。
    イエスという男は、ユダヤ人たちが
    大切にしてきた
    7日に1度必ず休むという、
    安息日の規則を破って、
    病人を癒すことをしていました。
    また、罪人と呼ばれて、
    ユダヤ社会の中で嫌われていた人たちと
    仲良く食卓を囲んでいるのです。
    そんな賛否両論な行動を起こす
    イエスさまの姿に、
    人々は困惑しました。
    そして、イエスさま自身、
    自分が何者であるのかを
    明言しません。
    ヨハネがイエスさまの
    自己証言の言葉として紹介するのは、
    私は良い羊飼いですとか、
    私は命のパンですといった、
    謎めいた比喩表現ばかりでした。


    ですから、そんなイエスさまの
    これまでのはっきりしない態度が
    原因なのでしょうか。
    ユダヤ人たちの間で
    論争が起こりました。
    イエスという男が誰なのかについて、
    人々が揉めている様子を
    福音書は報告しています。
    あの人は、メシアなのか。
    神が遣わした預言者なのか。
    それとも、悪い霊に
    取り憑かれているような、
    とても危険な人物なのか。
    誰もが納得のいく答えは
    一向に得られませんでした。
    だから、彼らはイエスさまに
    直接尋ねることにしたのでしょう。
    あなたが私たちの待ち望んでいる
    メシアであるなら、
    そうだとはっきり言ってくれ。
    これ以上、自分たちを
    困惑させないでくれ。


    彼らの言葉に、イエスさまは
    どのように答えたでしょうか。
    イエスさまは、「私は言ったが、
    あなたがたは信じない」
    と言います(25節)。
    イエスさまは答えたと言ってはいますが、
    実際、メシアであるかどうかを
    その場で明言することはしていません。
    じゃぁ、どっちなのと
    改めて問い返したくなる答えを
    イエスさまは彼らに伝えています。
    なぜこうもイエスさまは
    彼らに向かって
    自分がメシアであると明言するのを
    避けたのでしょうか。


    きっと、わかりやすさは時に、
    誤解を生むからでしょう。
    物事をわかりやすく、
    伝えようとするとき、
    実はもっと物事は
    複雑であることが無視されて、
    極端に単純化されて
    伝わってしまう場合があります。
    意図していなかった意味で
    語った言葉が受け止められ、
    都合の良いように
    解釈されてしまう場合だってあります。
    イエスさまが「自分はメシアだ」と言うことは、
    まさにそんな単純化による誤解を
    生み出す可能性が大いにありました。
    彼らが求めるメシアは、
    力によってユダヤ人たちを
    他の民族による支配から解放する、
    指導者や革命家のような人物でした。
    それは、イエスさまがこれまで
    人々に伝えてきた、
    自分の姿とは違ったものでした。
    イエスさまが自分のことを
    命のパンとして紹介したのは、
    イエスさまこそが命を人々に分け与え、
    人を生かす存在だからです。
    また、イエスさまが自分のことを
    良い羊飼いと紹介したのは、
    イエスさまこそがすべての人を
    心から気にかけ、愛し、
    その生涯を天の国に至るまで導き、
    守り続ける存在だからです。
    ですから、イエスさまは決して、
    自分たちの国を再建させるために、
    人々の命を犠牲にしたり、
    暴力的に他者を蹂躙するような意味で、
    人々を導くために、神から遣わされた
    メシアではありませんでした。
    ですから、イエスさまは非常に
    単純化され、誤解を生みやすい形で
    自分がメシアである
    とは答えませんでした。
    何よりも、イエスさまは、
    神殿において、ハヌカの時期に、
    ユダヤの宗教指導者たちから
    問いかけを受けています。
    それは、より誤解を生みやすい状況です。
    ギリシア人からの支配から
    神殿が解放されたことを
    お祝いするお祭りの中で、
    自分がメシアであると伝えることは、
    その当時の暴力的な
    抵抗運動を指導した人々と
    イエスさま自身を重ね合わせてしまう
    可能性があります
    だからこそ、イエスさまはこの時、
    この状況の中で、
    自分がメシアであると明言することは
    できなかったのでしょう。


    ですからイエスさまはこの時、
    メシアであるかどうかを答える代わりに、
    「私が父の名によって行う業が、
    私について証しをしている」(25節)
    と言いました。
    イエスさまはそう伝えることによって、
    自分の行動を見つめるようにと促しました。
    イエスさまの行動を見つめれば、
    イエスさまが神の願う行動を
    実際に行っていることがわかるから、
    イエスさまが何者であるかがわかるよと
    イエスさまは伝えているのです。
    イエスさまは一体、
    どのようなことを行ったのでしょうか。
    福音書が私たちに示し続けるのは、
    イエスさまが病の人を癒やしたことや、
    ユダヤ社会の中で弱さを覚え、
    社会の片隅で生きた人々に
    手を差し伸べ続けたことです。
    一体、それは何を意味したのでしょうか。
    ヨハネをはじめ、
    新約聖書に収められている
    他の福音書記者たちにとっても、
    イエスさまのそのような行いは、
    天の国の訪れを
    意味するものでした。
    きょうは旧約聖書から
    預言者イザヤの言葉を読みました。
    イザヤ書において、荒れ果てた地の
    回復の希望が伝えられています。
    その際、イザヤは、目が見えない人の目が
    見えるようになると伝えています。
    自然環境だけでなく、そこに生きる人間も、
    人間たちの関係も、回復していく。
    いや、傷つき、命が損なわれている世界全体が
    神によって回復へと向かっていく。
    そんな希望の始まりを
    預言者イザヤは伝えています。
    イエスさまが関わった人々が
    病を癒やされ、目が開かれ、
    耳が聞こえるようになり、
    歩けるようになる。
    そんな姿は、イザヤが伝えた
    この希望の言葉を
    思い起こさせるようなものでした。
    出会った一人ひとりと向き合い、
    彼らに働きかけたイエスさまのその姿は、
    世界全体に手を伸ばし、
    そこに生きるすべての命を慈しみ、
    傷ついたところを回復させ、
    豊かな命をもたらしたいと願う、
    神の愛や憐れみを映し出すものでした。
    そう、そのような神の愛や
    憐れみを映し出す、
    イエスさまの行いを通して、
    神は天の国に生きる喜びを
    この世界に広げようと願っています。
    預言者イザヤが宣言した、
    荒野が楽園となるような、
    この世界の回復が今、すでに始まっている。
    社会で後ろ指をさされて生きる人たちも、
    居場所がないと感じている人たちも、
    どんな人たちも一緒に笑い合って、
    手を取り合って生きることができる。
    そんな天の国で生きる喜びを
    この世界において少しでも実感できるよう、
    イエスさまはあらゆる人々を招き続けました。
    ですから、イエスさまがメシアであるとは、
    国家を建てることとは違います。
    民族を独立させることとは違います。
    そうではなく、メシア、
    すなわちギリシア語でキリストである
    イエスさまの行動は、
    天の国をこの世界にもたらすものでした。
    それが神の願いでもありました。
    そんな神の願いと
    イエスは思いを重ね合わせて、
    行動している。
    その姿を見つめてほしいと
    イエスさまは人々に願ったのです。
    イエスさまの行動を通してこそ、
    イエスさまが何者なのかがわかるから、と。


    けれども、そうは言っても、
    現代に生きる私たちの目には
    イエスさまの姿は見えません。
    そうであるならば、
    私たちはどのようにして、
    イエスさまの行いを見つめて、
    イエスさまのことをより深く知る
    ことができるのでしょうか。
    イエスさまが生きた時代から
    二千年離れた現代に生きる私たちにとって、
    イエスさまの行いを見つめることは
    不可能なことなのでしょうか。
    そう感じるにもかかわらず、
    不思議なことに、私たちはイエスさまと
    出会う経験をします。
    それは、神が聖書や祈り、
    礼拝や讃美歌などを通して、
    私たちに語りかける言葉を通してです。
    その意味で、私たちは自分自身に
    働きかけるイエスさまの姿を
    周囲のあらゆる事柄を通して、
    見つめることができます。
    ただ何よりも、私たちが
    イエスさまの行いを
    この目で見つめるのは、
    この場にいる人たちとの
    出会いを通してだと思います。
    というのも、私たちは
    イエス・キリストが私たちと共にいつも
    いてくださっていると信じているからです。
    ですから、キリストを受け止めるとき、
    私たちはいつも神の愛や憐れみ、
    神の願う平和や正義を教えられます。
    そして、それらを知識としてではなく、
    私たち自身の存在を通して、
    この世界に神の愛や憐れみ、
    平和や正義を映し出しながら
    生きるようにと招かれ続けています。
    たしかに、もちろん私たちに出来ることは、
    小さなことかもしれません。
    けれども、イエスさまが
    私たちと共にいることを通して、
    イエスさまは私たちと一緒に
    働いてくださっています。
    その意味で、私たちは教会に集う時、
    イエスさまが共に何かをなそうとしている、
    一人ひとりの姿を
    見つめることになります。
    ある人は、神の願う平和を真剣に受け止めて、
    平和を願うための市民活動に参加します。
    時にはこの社会の差別意識と戦います。
    ある人は、イエスさまがすべての人を
    分け隔てなく招いたことを受け止めて、
    居場所を作り出そうと奮闘します。
    ある人は、戦争や貧困、
    飢餓や災害などによって、
    この世界で傷ついている人々に
    心を寄せて、神の憐れみを求めて祈ります。
    ある人は、一人ぼっちの人がいたら、
    駆け寄ってそばにいます。
    ある人は、笑顔でそこにいるだけで、
    神の愛を証しするでしょう。
    そんな一人ひとりと一緒に、
    イエスさまはいてくださいます。
    そう、ですから私たちは、
    イエスさまが一人ひとりに働きかけた
    そんな姿を見つめることができます。
    目には見えない神の働きが、
    共に生きる人々を通して、
    教会において、
    私たちが生きるこの社会において、
    明らかになります。
    私たちがお互いに助け合う時、
    平和を模索する時、
    誰かを思って祈る時、
    あらゆる時に、
    私たちは共に働いてくださる
    イエスさまの姿を見つめ、感じ取りながら、
    日々の働きを行うことができます。
    そんな日々の歩みへと
    神は私たちをいつも
    押し出してくださっています。
    どうかキリストの平和が
    みなさんと共にありますように。

週報より

  • 2025.11.09 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝の中で召天者記念式を行います。
    わたしたちよりも先に、わたしたちの故郷である天の御国へと帰った方々を
    思い起こし、記念し、祈る時を持ちました。
    また、きょうは礼拝後に讃美歌を歌う会を予定しています。

    ② 礼拝堂と付属館の外壁塗装が11月1日(土)より始まりました。
    天候により前後することはありますが、期間は3週間の予定です。
    今回は外壁塗装に加えて、太陽光パネルの清掃もしていただける予定です。
    今回の外壁塗装のための献金にご協力いただける方は、
    受付正面の壁にかけてある献金袋や予約献金の申込用紙をご利用ください。
    外壁塗装の献金は目標金額(145万円)まで残りおよそ40万円です。

    ③ 11月9日(日)の礼拝の中で子ども祝福式を行います。
    対象は小学生以下のこどもたちです。どうぞご予定ください。
    また、礼拝後には聖書カルタ大会(子どもたちの自作)を予定しています。

    ④ 11月16日(日)の礼拝後、ティータイムの後にリース作りの会を予定しています。
    ご自宅用のクリスマスリースを作ります。どなたでもお気軽にご参加ください。

    ⑤ 小山教会50周年の記念『モレノ』特別号へのご協力のお願い
    特別号編集チームは、小山教会での思い出や、これからの教会への思いを
    綴った原稿を募集しています(400〜800文字程度、本日締切です)。
    たくさんの方のご寄稿をお待ちしています。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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