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朗読箇所

三位一体後第21主日

旧約 コヘレトの言葉 11:1–6


1 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。
2 七人と、八人とすら、分かち合っておけ
国にどのような災いが起こるか
分かったものではない。
3 雨が雲に満ちれば、それは地に滴る。南風に倒されても北風に倒されても
木はその倒れたところに横たわる。
4 風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。
5 妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。
6 朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか
それとも両方なのか、分からないのだから。


新約 ヨハネによる福音書 7:1–9

◆イエスの兄弟たちの不信仰
1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。
2 ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。
3 イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。
4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」
5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。
6 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。
7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。
8 あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」
9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

説教

神の時の訪れを待ち望みながら

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    あと2ヶ月半ほどで、新しい年を迎え、
    西暦は2025年になります。
    でも、新しい年がいつから始まるのかは、
    使用する暦によって変わってきますね。
    日本の場合、旧暦ならば、次の新年は1月29日です。
    また、教会の暦は、アドヴェントの最初の日曜日から、
    新しい年に入ります。
    ですので、今年の場合、教会の暦では、
    12月3日から新しい一年が始まります。
    それでは、イエスさまが生きた時代は、
    どうだったのでしょうか。
    実は、秋の収穫の時期を
    ユダヤ人たちは新しい年として
    お祝いしていました。
    現代のユダヤ人たちも同じで、
    ユダヤ人たちの暦では、
    2週間ほど前が一年の始まりの日でした。

    さきほど読んだ、ヨハネによる福音書が
    紹介する物語の中で、
    イエスさまはご自分の兄弟たちから、
    仮庵祭というユダヤ人たちの祭りに参加するために、
    エルサレムへ行くようにと勧められています。
    この仮庵祭というお祭りは、新年を迎えた月の
    15日目から始まり、1週間続くものでした。
    ちなみに、暦の上では、
    きょうはその仮庵祭の4日目です。
    仮庵祭は、秋の収穫を喜ぶための日です。
    気候や自然災害によっては、
    収穫の時期に十分な量の食物を
    収穫できるとは限りません。
    ですから、収穫の時期が訪れたら、
    彼らは毎年喜んでその収穫を神に感謝し、
    お祝いをしました。
    でも、仮庵祭は、単に秋の収穫を
    喜ぶだけの日ではありません。
    ユダヤ人たちの先祖である、イスラエルの民が、
    かつて40年間、シナイ半島の荒野を放浪し、
    旅をしていたときに、
    神が常に彼らに食べ物を与え、
    彼らの旅を最後まで守りました。
    仮庵祭は、神によって導かれ、養われた、
    この出来事を、秋の収穫の時期に
    思い起こして、みんなで一緒に喜ぶお祭りでした。
    彼らは仮庵、つまりテントを建てて、
    このお祭りの期間を過ごしました。
    荒野を旅していた時期、
    彼らの先祖はテント生活を送っていたからです。
    そしてお祭りの期間中、毎晩、
    ユダヤ人たちは手にたいまつをもって踊り、
    音楽を奏で、歌い、楽しく過ごしました。

    このお祭りは、その当時のユダヤ人たちにとって、
    とても大切なお祭りのひとつでした。
    ですので、各地からこのお祭りに参加するために
    エルサレムにやって来る人たちもたくさんいました。
    そのため、イエスさまの兄弟たちは、
    お祭りが開催されるエルサレムへ行ったらどうかと、
    イエスさまに勧めました。
    自分の兄弟であるイエスさまが、
    普段、人びとを集めて教えを語り、
    病人を癒やし、不思議な奇跡を起こしていることを
    彼らはよく知っていたからです。
    また、それと同時に、
    イエスさまのもとを離れていった人たちが
    たくさんいたことも、兄弟たちは知っていたのでしょう。
    イエスさまのもとを離れていった人たちに
    アピールする意味でも、
    たくさんの人たちがエルサレムに集まる
    仮庵祭の時期は、
    イエスさまの普段の活動を行うのに、
    まさに絶好のタイミングじゃないかと、
    彼らには思えたのでしょう。
    ガリラヤ地方でこそこそと活動していないで、
    たくさんの人が集まるお祭りの時期なんだから、
    エルサレムの都に行って活動してくれば
    良いじゃないか、といったように。

    イエスさまの兄弟たちによるこの提案が、
    イエスさまに対する好意的な思いから出てきたのか、
    それとも、エルサレムに行こうとせずに、
    ガリラヤに留まろうとしていたイエスさまを
    茶化すためであったのかはわかりません。
    いずれにせよ、イエスさまは彼らの提案を断ります。
    それは、イエスさまのこれまでの言動を見聞きして、
    イエスさまに対して怒りを覚え、
    イエスさまを捕らえて、殺す計画を立てていた
    ユダヤの宗教指導者たちとのさらなる対立を
    イエスさまが恐れたからではありませんでした。
    というのも、イエスさまは、
    「私の時はまだ来ていない」(6節)と言って、
    提案を断っているからです。
    兄弟たちが提案したタイミングは、
    イエスさまにとって不都合なタイミングだった
    ということでしょうか。
    たしかに、エルサレムにいて、
    イエスさまを妬むユダヤ人たちを恐れるならば、
    ほとぼりがまだ冷めない時期である今、
    エルサレムに行くことは、
    イエスさまにとって都合が良いタイミングとは
    言い難いでしょう。

    けれども、この時のイエスさまの心にあったのは、
    そんな自分や兄弟たちにとって
    良いと思えるタイミングではなく、
    神がふさわしいと考えるタイミングは、
    いつなのかということにありました。
    ヨハネによる福音書の著者は、
    イエスさまについての物語をこれまで
    時間をかけて紹介する中で、
    そのタイミングがいつであるのかについて、
    何度かほのめかしてきました。
    中でも決定的な場面は、
    洗礼者ヨハネがイエスさまのことを
    人びとに紹介した場面でしょう。
    「見よ、世の罪を取り除く
    神の小羊だ」(1:29)と言って、
    洗礼者ヨハネはイエスさまを指し示しました。
    この福音書の著者は、
    イエスさまの生涯を振り返る時、
    神の小羊であるイエスさまにとって、
    エルサレムへ行くのに
    ふさわしい時があったことを知っています。
    過越祭という春のお祭りが
    開催される時期こそが、
    神が定めた時であったと理解した上で、
    ヨハネによる福音書は
    イエスさまの物語を紹介しています。
    過越祭は、解放と自由を
    イスラエルの民に告げるお祭りでした。
    そんな過越祭が始まる前に、
    お祭りの準備のために小羊が屠られました。
    ヨハネによれば、神の小羊であるイエスさまが
    十字架にかけられた時期は、過越祭の前でした。
    解放と自由を告げる、過越祭の準備として
    小羊が屠られたように、
    すべての人に罪の赦しと
    罪の束縛からの解放を与えるために、
    神の小羊であるイエスさまが
    十字架にかかる必要がありました。
    過越祭の時期は、神の計画において、
    イエスさまを通して明らかにされる
    罪の赦しと神の愛を告げるのに、
    ふさわしい時期でした。

    ところで、イエスさまの兄弟たちが
    イエスさまに参加するようにと、
    勧めたお祭りは何だったでしょうか。
    その準備のために、小羊が屠られる、
    過越祭ではありませんね。
    それは、収穫を喜ぶ仮庵祭でした。
    エジプトでの奴隷状態から解放された
    イスラエルの民が荒野を旅していたとき、
    神が彼らのその旅を最後まで守り、
    養い続けてくださったことを
    思い起こすお祭りが、仮庵祭でした。
    そんな喜ばしい出来事を
    思い起こすためのお祭りでしたが、
    仮庵祭はイエスさまにとって
    ふさわしい時ではありませんでした。
    収穫を喜ぶことも、
    奴隷状態からの解放を喜ぶことも、
    神からの養いを喜ぶことも、
    もちろん、どれもすべて大切なことです。
    でも、その喜びの源である、
    神からの赦しと神からの愛を
    この世界に明らかにすることこそが
    必要だったのではないでしょうか。
    だからこそ、イエスさまがエルサレムへと
    公に向かうべき時として、神が定めた時は、
    仮庵祭の時期ではありませんでした。
    それはどうやら、
    イエスさま自身の確信でもありました。
    だからこそ、イエスさまは、
    今は神が定めている時ではないという意味を込めて、
    兄弟たちの提案を断りました。
    それは、仮庵祭ではなく、
    過越祭が開催される時期に、
    神の小羊として、エルサレムに向かうためでした。
    またそれは、この世界に喜びと自由を与えるという、
    神の願いが実現するためでもありました。

    そんな風に、イエスさまは自分に対しては、
    神の時があることを強く自覚しています。
    けれども、イエスさまは
    自分の兄弟たちについては、
    「あなたがたの時は
    いつも備わっている」と言っています。
    それは何だか、兄弟たちが行きたいと望むならば、
    彼らの好きな時にエルサレムに行けば良いじゃないか
    というようなスタンスで
    イエスさまがいるように見えます。
    ということは、イエスさま以外は、
    誰も神の時を気にする必要などないのでしょうか。
    もちろん、そのようなわけではありません。
    イエスさまが自分の兄弟たちを
    このように取り扱っているのは、
    自分の兄弟たちが
    世に属していると見ているためです。
    イエスさまの言葉から、
    この福音書の中で世と呼ばれるものは、
    イエスさまに常に敵対的なもの、
    悪いものとして感じられます。
    けれども、ヨハネによる福音書は、
    人類全体を世と呼びます。
    神が愛し、罪の赦しを与え、
    救いの喜びを与えたいと
    心から願っている、その対象こそが世です。
    けれども、世は神に反抗してしまいます。
    神のタイミングを拒否して、
    自分の都合の良い時、
    自分だけが得することができる
    タイミングを追い求めてしまいます。
    罪の赦しや神の愛をこの世界に広げるよりも、
    自己愛や争いをこの世界に広げています。
    神の願うタイミングよりも、
    自分の自由にできる時の方が
    貴重だと感じてしまいます。
    それがこの世界の当たり前ですし、
    何よりも、誰にでも染み付いている
    生き方や価値観です。

    そんなこの世界で生きるすべての人びとに
    イエスさまは呼びかけて、
    一緒に旅をしようと招いてくださっています。
    それは、この世界のやり方で
    わたしたちの人生を染め上げる旅ではなく、
    イエスさまと共に歩み、
    イエスさまと一緒に
    神の時を待ち望みながら、
    歩んでいくような旅です。
    わたしも、みなさんも、
    イエスさまと共に歩む、
    その旅へと招かれている、その一人です。
    イエスさまが自分の時を優先するのではなく、
    神の時を求めて生きたように、
    イエスさまと一緒に旅をするわたしたちも、
    神の時を求めながら歩んで行く。
    神の愛や赦しが
    わたしたちの人生に訪れ、広がっていく。
    そんな神の時の訪れを
    待ち望みながら歩む旅です。
    争いにあふれるわたしたちの日常や社会が、
    和解と平和と共に生きる喜びで包まれていく。
    そんな神の時の訪れを
    待ち望みながら歩む旅です。
    そんな生き方がわたしたちの前には
    いつも開かれています。

    ところで、わたしたちにとって、何が
    神の望むふさわしいタイミングなのでしょうか。
    残念ながら、それはすぐにはわかりません。
    誰の目から見ても、
    わかりやすいしるしなどありません。
    後から振り返って、神の導きや
    神の働きかけに気づくのかもしれません。
    でも、ひとつ確かに言えることは、
    できる限りすべてのものや時間を
    自分の責任のうちに
    握りしめてしまわないことです。
    たしかに、目に届くできる限りの範囲を
    自分の力で責任を負い、
    何とかしようとするならば、
    わたしたちの意思やわたしたちの願いは、
    わたしたちの周囲にたくさん反映されることでしょう。
    でも、どんな時も自分の力で、
    自分の責任で行っていたらならば、
    わたしたちの人生やわたしたちの周囲で、
    神が働いてくださる、その余地をわたしたちの側が
    追い出すことになってしまいかねません。
    神が願うタイミングはいつなのでしょうか。
    自分にとって重要なことにこそ、
    わたしたちはそんな風に問いかけたくなります。
    もちろん、時には努力も必要となるでしょう。
    でも、それ以上にわたしたちが忘れてはいけないのは、
    わたしたちの人生の中で、
    神が働いてくださる場所や時間が
    必ずあるということです。
    すべてのことは、わたしたちの努力や成功や
    失敗や罪深さだけの結果ではありません。
    この世界を愛し、わたしたちを慈しんでくださる神は、
    わたしたちの生涯に
    いつも手を伸ばしてくださっているからです。
    そんな事実に目を向けるならば、
    何気ない瞬間においても、
    神の定めたタイミングが訪れる。
    そんな可能性に気づくかもしれません。
    どうか、わたしたちを決して見捨てず、
    愛し続けてくださる神を信頼して、
    みなさんが日々の歩みを続けていけますように。
    神は、わたしたちの人生にいつも働きかけ、
    わたしたちの歩んで行く一歩一歩を支え、
    わたしたちの生涯を導いてくださる方です。
    どうか、そんな神が、わたしたちにとって
    最もふさわしいと考える、
    神の時が、神のタイミングが、
    わたしたちの間に訪れることに、
    希望を抱き続けることができますように。
    神の時の訪れを待ち望みながら、
    これからも一緒に信仰の旅路を
    歩み続けて行きましょう。

週報より

  • 2024.10.20 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に、小山祈りの家でピクニックを予定しています。
    賛美やゲーム、バーベキューなどをする予定です。
    飛び入り参加も大歓迎です。どなたでもご参加ください。
    参加費は無料です(自由献金あり)。
    礼拝後に車の乗り合いや荷物の分担を確認後、準備ができ次第出発します。

    ② 来週日曜日、礼拝後に月報『モレノ』の編集会を予定しています。
    モレノチームのみなさまはよろしくお願いいたします。
    月報への絵、原稿、写真などの寄稿はいつでも募集しています。
    寄稿をしていただける方は牧師までお知らせください。

    ③ 11月9日(土)から10日(日)にお泊り会を予定しています。
    キャンドルサービスで予定しているこどもたちの劇の準備のため、
    9日(土)の午後からお泊り会を開催する予定です。
    食事準備(夕飯と朝食)などをお手伝いいただける方は、
    基嗣牧師またはポール・レディングトンさんまでお知らせください。
    様子を見に来たり、差し入れをしていただくことも大歓迎です。


    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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