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朗読箇所

四旬節第3主日

哀歌 1:12–22


12 道行く人よ、心して
目を留めよ、よく見よ。これほどの痛みがあったろうか。わたしを責めるこの痛み
主がついに怒ってわたしを懲らす
この痛みほどの。
13 主は高い天から火を送り
わたしの骨に火を下し
足もとに網を投げてわたしを引き倒し
荒廃にまかせ、ひねもす病み衰えさせる。
14 背いたわたしの罪は御手に束ねられ
軛とされ、わたしを圧する。主の軛を首に負わされ
力尽きてわたしは倒れ
刃向かうこともできない敵の手に
引き渡されてしまった。
15 わたしのもとにいる力ある者を
主はすべて退けられた。わたしに対して時を定め
若者らを砕かれた。主は、酒ぶねを踏むかのように
娘ユダのおとめらを踏みにじられた。
16 それゆえわたしは泣く。わたしの目よ、わたしの目よ
涙を流すがよい。慰め励ましてくれる者は、遠く去った。敵は勢いを増し
わたしの子らは荒廃に落ちてゆく。
17 シオンは手を差し出すが、慰める者はない。主は敵に命じてヤコブを包囲させられた。エルサレムは敵の中で、笑いものになっている。
18 主は正しい。わたしが主の口に背いたのだ。聞け、諸国の民よ
見よ、わたしの痛みを。わたしのおとめらも若者らも
捕えられ、引かれて行った。
19 わたしは愛した人々に呼びかけたが
皆、わたしを裏切った。わたしの祭司ら長老らは、都で息絶える
命をつなごうと、食べ物を乞いながら。
20 御覧ください、主よ、この苦しみを。胸は裂けんばかり、心は乱れています。わたしは背きに背いたのです。外では剣が子らを奪い
内には死が待っています。
21 聞いてください、わたしの呻きを。慰めてくれる者はありません。敵は皆、わたしの受けた災いを耳にして
あなたの仕打ちを喜んでいます。彼らにも定めの日を来らせ
わたしのような目に遭わせてください。
22 敵の悪事が御前に届きますように。あなたの懲らしめを受けますように。あなたに背いたわたしが
こんなにも懲らしめられたように。わたしはこうして呻き続け
心は病に侵されています。


ガラテヤの信徒への手紙 3:6–14


6 それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。 7 だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。 8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。 9 それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。 10 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。 11 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。 12 律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。 13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。 14 それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。

説教

この口から呪いの言葉を消してください

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    哀歌と呼ばれるこの詩には、
    希望に溢れる言葉は
    ほとんどありません。
    少なくとも、1章に収められている詩は、
    哀しみや嘆き、
    呻きや怒りの声で溢れています。
    詩人は、周りの国から、
    自分たちが見捨てられ、
    笑いものにされていることを
    悲しんでいます。
    見てくださいと叫んでも、
    傷ついた自分たちを
    目に留め、助けて、
    慰めを与えてくれる人たちなど
    どこにもいません。
    寧ろ、自分たちが傷ついてる姿を見て、
    周囲の国は喜んでいます。
    詩人がこの詩でうたうのは、
    エルサレムの都が
    バビロニアの軍隊に
    攻め落とされた経験です。
    仲間や家族の命が奪われました。
    エルサレムの都に
    籠城する期間が長かったため、
    飢えて死んでいく
    子どもたちもたくさんいました。
    最終的に、自分たちにとって大切な
    神殿が壊され、
    都はボロボロになりました。
    一部の人たちは、見知らぬ土地へと
    強制的に連れて行かれました。
    詩人は、この一連の経験と
    廃墟となってしまった都に残された
    現在の状況を悲しんでいます。
    嘆き、呻き、
    叫び声を上げています。


    なぜ自分たちの都は、
    このエルサレムの都は破壊され、
    命をことごとく
    踏みにじられることになったのか。
    哀歌をうたった詩人にとって、
    自分たちにこそ、その原因があると
    思えてなりませんでした。
    神との関係を損ねてきたから。
    神を愛さず、
    共に生きる人たちも愛さず、
    自分たちの身勝手に生きてきたから。
    神と人の前に犯してきた
    自分たちの罪を裁くために、
    神はバビロニアの軍隊が
    エルサレムを攻めることを許された。
    詩人はそのように
    この出来事を受け止めています。


    でも、その一方で、
    そんな風には受け止めきれない。
    複雑な感情が詩人の心の中に
    入り混じっています。
    神が自分たちを見捨てるのは
    あんまりじゃないか。
    ここまでの仕打ちは
    やりすぎじゃないか。
    だから自分たちの
    これまでの過ちを認めながらも、
    詩人は神に向かって訴えました。
    「御覧ください、主よ。
    私は本当に苦しいのです。」(20節)
    「聞いてください、
    私の呻きを。
    私には慰めてくれる者がいません。」(21節)
    このように自分の味わっている
    苦しみを伝えながら、
    詩人は神に向かって
    抗議を重ねています。
    そして、詩人は最後に、
    呪いの言葉を添えることで、
    最初の詩を終えています。
    「彼らも懲らしめてください。
    私の背きの罪すべてについて
    私を懲らしめられたように。」(22節)
    自分が受けたような暴力を
    自分たちのことを傷つけた
    あの人たちにも与えてください。
    そんな報復を願う、呪いの言葉で
    哀歌の最初の詩は閉じられています。
    そう、希望の言葉を語るどころか、
    呪いの言葉を語って
    この最初の詩は終わっています。
    この詩には、神への信頼を
    表明するような言葉など
    ほとんどありません。
    将来の希望を
    見つめることもありません。
    ただただ、哀しみ、
    そして、敵を呪っています。
    ですから、信仰者の模範的な姿勢と
    私たちが考えるようなものからは、
    かけ離れたものに見える
    祈りを記録している詩だと
    いえるかもしれません。


    このような呪いの言葉が
    聖書の中に記されていることは、
    私たちの心を
    動揺させるものかもしれません。
    神を信頼し、
    神の愛や平和がこの世界に
    実現することを願う人こそ心を乱され、
    信仰を揺さぶられる言葉かもしれません。
    果たして、このような
    呪いの言葉を吐くことは
    私たちに許されるのでしょうか。


    この言葉を読む際に、
    ひとつ心に留めて置かなければ
    いけないことがあります。
    それは、この呪いの言葉を
    発している詩人自身は、
    エルサレムの破壊を経験した
    被害者であるということです。
    その上、エルサレムの都が
    破壊された出来事から
    あまり時間が経っていない時期に、
    この詩人はこの詩を書き上げています。
    破壊と殺戮の記憶が鮮明すぎて、
    希望の言葉など紡ぐことができない。
    希望の言葉を語っても、虚しすぎる。
    何とか、今のこの苦しみを
    乗り越えていくために、
    たどり着いた言葉が
    哀しみを率直に
    神に向かって伝えることでした。
    神に向かって嘆き、呻くことでした。
    そして、神に向かって、
    敵への呪いの言葉を
    吐き出すことでした。
    今の自分を取り囲んでいる
    この現実に向かって、
    どうにかして言葉を紡ぎ、
    抵抗を試みた結果、
    出てきたのが嘆きや呻きであり、
    そして呪いの言葉でした。
    ですから、詩人自身は、
    復讐を実行したい
    というような強い願いを込めて、
    神に向かって祈ったわけではありません。
    むしろ、自分たちを踏みにじり、
    破壊の限りをつくした
    あのバビロニア軍の行動が
    不当なものであったことを
    訴えているのです。
    それは、彼らにも、自分たちの苦しみが
    どれほどのものであったかを
    知ってほしいと願う祈りです。
    ですから、哀歌のこの祈りは、
    呪いの言葉を吐くことそのものを
    完全に正当化する祈りとはいえません。


    けれども、哀歌に記されている
    この呻きや叫び声に似たこの祈りは、
    耐え難い出来事を経験したときに、
    人間誰もが経験するような
    現実といえるでしょう。
    何が苦しみとなり、
    心を引き裂いているのかは、
    一人ひとり置かれている状況は違います。
    それは、愛する人の死かもしれません。
    日常の中で不当な扱いを
    受けている経験かもしれません。
    病気かもしれません。
    政治や世界情勢に対するものかもしれません。
    物価高騰による、生きにくさかもしれません。
    紛争や戦争の被害かもしれません。
    食糧不足、水不足かもしれません。
    気候変動かもしれません。
    自然災害かもしれません。
    この世界には、呻きや嘆きといった
    叫び声を引き起こすことが数多くあります。
    そして、呪いの言葉を引き起こすような
    出来事が悲しいほどにたくさんあります。


    たしかに、現代に生きる私たちの
    感覚からするならば、
    自分を傷つけた人たちへの
    呪いなど語らない方が
    はるかに良いものです。
    彼らもまた同じ人間なのですから。
    でも、私たちの心が
    それを許さないことが
    往々にしてあります。
    納得できないことがあります。
    嘆きます。
    哀しみます。
    うめき声を上げます。
    叫びます。
    そして、呪います。


    哀歌の詩人は、私たち人間が
    度を超えた哀しみや苦しみを
    経験することがあることを
    よく理解しています。
    だから、模範的な祈りを
    紹介するつもりなど、
    ないのでしょう。
    それっぽい希望の言葉を
    紡ぐことさえも
    この詩人は拒否しています。
    むしろ、私たちが心で覚える怒りを、
    沸き起こってくる呪いの言葉を
    神の前で吐き出して、絞り出して、
    枯れ果てさせる。
    そのような形でこの詩人の祈りは、
    私たちに寄り添おうとしています。
    それっぽい希望の言葉で
    嘆きや哀しみや怒りや呪いを
    包み隠してしまうならば、
    そういったものが消えることがない。
    心の中でくすぶり続けてしまう。
    やがて、その怒りや呪いが、
    憎しみや暴力の連鎖という形で
    共に生きる人たちへと
    向いてしまうでしょう。
    哀歌の祈りは、
    そのような私たちの心を守り、
    そして、他者と共に生きることを
    私たちに諦めさせません。
    その具体的な道のりとして、
    神に向かって祈り、吐き出す、呪いの言葉を
    哀歌は示しているのではないでしょうか。
    神に向かってその呪いの言葉を吐き出せ。
    神に向かってその怒りを呻きを絞り出せ。
    神はあなたの抱えるそのすべてを
    受け止めてくれるに違いないから。
    哀歌を次の世代、次の世代へと
    受け渡してきた人たちの
    そんな切実な声が
    聞こえてくるかのようです。


    もちろん、私たちのこの口に
    呪いの言葉が湧き起こって来ないことこそ、
    やはり、多くの人が願うことでしょう。
    私という一人の人間が
    呪いではなく、祝福を語る。
    そんな存在として生きることを
    神が願っていることは、
    確かにその通りです。
    けれども、現実問題、
    そう理想通りにはいかないのは、
    私たち人間の間に
    罪や悪があるからです。
    私たちの心から沸き起こり、
    共に生きる人たちを傷つけ、
    踏みにじってしまう。
    そして、今日も誰かの口に
    呪いの言葉を
    生み出してしまう。
    哀歌が紡ぐ詩は、
    まさにそんな私たちの抱える問題を
    映し出しているように
    見えてなりません。
    私たちの抱える罪や
    悪が原因となって、
    共に生きる人たちの間に、
    そしてこの世界に、
    嘆きや哀しみ、
    呻きや呪いの言葉を
    引き起こしてしまっているのですから。


    きょう私たちは新約聖書から、
    使徒パウロがガラテヤの教会へ向けて
    書き送った手紙を読みました。
    そこには、とても衝撃的なことが
    記されています。
    パウロはイエスさまが十字架に
    かけられて死んだことについて、
    キリストは、私たちのために
    呪いとなった(ガラテヤ3:13)
    と書いています。
    十字架の上にかけられた人は、
    神に呪われた者とみなされたためです。
    イエスさまが呪われた者とみなされ、
    十字架の上で死んだのは、
    私たちの罪が赦されるためであったと、
    私たちは信じています。
    それは、私たちのこの口に
    呪いの言葉を引き起こす、
    あらゆる罪や悪の支配から、
    私たちを救い出すためでした。
    そのために、神の子であるイエスさまが
    呪いへと引き渡されていったという
    衝撃的な言葉をパウロは
    紹介したのです。


    それは、決して、
    私と神との間で起こる、
    個人的な、パーソナルな出来事に
    留まるものではありません。
    だって、私たちに嘆きや哀しみを与え、
    呪いの言葉を引き起こす出来事は、
    何も私個人の抱える罪だけが
    原因ではないからです。
    この世界とそこで生きる人類全体を、
    そして命あるすべてのものを
    罪の支配から救い出すために、
    イエスさまは十字架にかけられました。
    ですから、神がイエスさまを通して、
    取り除こうとしているのは、
    私個人の嘆きや
    呪いの言葉ではありません。
    この世界全体から、
    人類全体から、
    神は呪いの言葉を消すために、
    イエスさまを私たちのもとに
    送ってくださったのです。
    ですから、私たちは
    この神の恵みを受け止めて、
    強く願うことができます。
    この世界から少しでも、
    私たちの口に呪いの言葉を
    引き起こすような出来事を
    なくしてください。
    私たちの心に嘆きや
    呻きをもたらす出来事を
    少しでも減らしてください。
    不正義を、争いを、不平等を、差別を
    どうか終わらせてください。
    そのような形で、
    私たちのこの口から、
    呪いの言葉を消してください。
    イエスさまと出会い、共に歩むなら、
    ただ呪いの言葉を
    神の前で吐き出すだけが
    私たちに与えられている
    祈りではないことに気付かされます。
    この口から誰かを呪うような言葉を
    吐き出す機会が消え去っていく。
    そんな現実が訪れることを願いながら、
    神の前で私たちの抱える
    ありとあらゆる感情をさらけ出していく。
    そんな祈りの道が私たちの前に
    開かれていくのではないでしょうか。

週報より

  • 2026.03.08 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に月例教会役員会を行います。
    教会役員のみなさまはよろしくお願いいたします。
    主な議題は、イースターと居場所支援についてです。
    役員会への提案がある方は、牧師または教会役員までお知らせください。

    ② 先週より、双方向での礼拝のオンライン出席が可能となりました。
    Google Meetを使用してご自宅から聖書の学びと
    礼拝に出席することが可能です。
    設定方法も含めて、利用方法を知りたい方は基嗣牧師までお知らせください。
    礼拝時間の前後は、オンラインで礼拝出席される方たちと
    ゆっくりお話ができるようにもしておきます。

    ③ 外壁塗装のための献金に目標金額(145万円)が集まりました。
    ご協力くださり、ありがとうございました。

    ④ 3月から5月までの礼拝担当表を作成しました。
    掲示されている表をご確認お願いします。
    ご都合の悪い日がありましたら、牧師までお知らせください。
    また、係の礼拝の係やチームにご協力いただける方を募集しています。
    係を担当してくださる方は申し込み用紙にご記入の上、
    受付テーブルの上の白い箱に入れてください。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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