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朗読箇所

三位一体後第2主日

ミカ書 4:1−3

◆終わりの日の約束
1 終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい
2 多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
3 主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。


ローマの信徒への手紙 15:1−6


1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。
3 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。
「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
4 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。
それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。
5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、
6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。

説教

主イエスこそ我が望み

音声は準備中です

  • 説教者  石田学 牧師

     

    「忍耐と慰めの源である神」パウロはきょうの聖書箇所で神をこのように呼びます。
    「源」という単語はもともとのギリシア語聖書にはありません。
    この言葉を直訳すると、
    「忍耐と慰めの神」ですが、日本語聖書が「源である」を補うことによって、
    忍耐と慰めが神から来るという意味合いを全面に出すのです。
    しかしパウロは忍耐と慰めが神から来るという以上のこと、
    つまり神の本質について語っているように思います。
    神の本性は忍耐であり、慰めが神の本質であるという、
    神についての深い洞察を、パウロはこの箇所で告げ知らせているのです。
    しかし、この言い方は、とても不思議でもあります。
    ここにしか出てこない、神についての言い方だからです。
     神を言い表す言葉は聖書の中にたくさんあります。
    神は救いの神と呼ばれ、聖なる神と言い表されています。
    神はキリストの父なる神であり、偽ることのない神と表現されています。

    神は愛、憐れみ深い神、慈しみ深い神と呼ばれています。
    その他にも神を言い表す多くの言葉を、皆さんは聖書の中に見出すことでしょう。
     なぜこのように多彩な言い方で、神のことが表現されているのでしょうか。
    それは神がわたしたち人間に対して、実に多様な仕方で関わってくださるからです。
    人が嘆き、苦しみ、痛み、悲しむ時、神は人に寄り添う仕方で関わってきました。
     エデンの園でアダムとエヴァが禁じられた果実を食べ、
    エデンから去らねばならなくなったとき、
    神は彼らに皮の着物を着せて送り出したと、創世記は物語ります。
    神の憐れみと慈しみが表された出来事でした。
    神の独り子、主イエスが十字架で苦しまれた時、
    天の神の悲嘆と苦悶が全世界を闇に包むほどでした。
    神が痛みを分ち、深い同情を抱く方だとわかる出来事です。
    人類のあらゆる体験を神は無視せず、寄り添うのです。
    だから人間の体験が多様であれば、それと同じかそれ以上に、
    神がどのような方かを物語る言葉は多様であり、

    また具体的な出来事によって異なっています。
     古代から世界で栄えてきたどの文明、どの民族も、
    たくさんの神々の物語で溢れています。
    そして、どの世界でも多神教が普通であり当然でした。
    諸々の神は、それぞれ司る領域があると信じられていました。
    神々はいろいろな役割を分担し、いわば分業していたのです。
    太陽の神、月の神、陰府の王、時間を司る神、美の神、音楽の神、
    その他あらゆる領域を司る神が祀られてきました。
     全人類の中で、古代ヘブライ人だけが唯一の例外でした。
    古代ヘブライ人だけが唯一の神を信じたからです。
    唯一の神は、世界の創造主であり、世界を存在させている神、
    世界を維持し、この世界に正義と公平を求める神であり、
    唯一の神は、世を愛する慈しみ深い方です。
     古代ヘブライ人は神を「全能の神」と呼びました。
    全能とはなんでもできるという意味だと思われるでしょう。
    たしかに、「神にはできないことはない」と聖書は言います。
    しかし、神の全能はそういうことを言いたいのではありません。
    唯一の神はあらゆることに御手を伸べてくださり、
    すべてのことにおいて善であり、
    悪をおこなう方ではないということを意味しています。
    新約聖書の1ペトロ書は、神が全能の神であることの意味を、
    このように言い表したのでした。「あらゆる恵みの源である神」と。
    神はすべてのことにおいて恵み深い方である。

    それが、神が全能であることの、わたしたちにとっての意味です。
     だからこそ、神がどのような方かを言い表す言葉は、実に豊かで多様でした。
    神は人間のその時々の願いや求め、祈りに心を寄せ、
    必要に応えてくださる方だからです。
     パウロは手紙の中で、神を「平和の神」と何度も呼んでいます。
    パウロの関わった教会と人々にとって、
    神が平和の神であることが何よりも必要かつ重要だったからです。
    しかし、そうであればこそ、なぜパウロはここで、この箇所でだけ、
    神を「忍耐と慰めの源である神」と呼んだのでしょうか。
     その理由はとても明白です。
    ローマの人々は神の忍耐と慰めを必要としていて、
    神がその必要に応えてくださることを、パウロは確信していたからです。
    その時代、その時のローマのキリスト者にとって、
    神が忍耐と慰めの源であることが最も必要でした。
    ローマでは教会の中に分断と対立が起きていました。
    自分たちを「強い者」と考える人たちが、「弱い者」とみなす人たちを見下し、
    蔑んでいました。「弱い者」と言われた人たちは逆に、
    「強い者」と考えている人たちを裁いていました。
     彼らがお互いにどのように振る舞っていたのか、
    パウロは詳しいことは書いていません。
    しかし容易に想像することができます。
    互いへの不信、怒り、軽蔑を抱き、相手に対する憎しみがやがて敵意になり、
    罵りやあざけりの言葉を投げかけあっていたのでしょう。
    もう両者の関係を修復することは不可能に思われます。
    深く相手を傷つけ、あるいは相手から傷つけられ、
    越え難い溝が両者を隔てることになったからです。
     互いを隔てる壁は取り除くことができないほど強固です。
    ここまで分断と対立が深まってしまったなら、
    もう和解と一致を築くことは諦めて、別々の教会に分かれて、
    互いに関わらないようにすることが、
    もっとも賢い現実的な解決法ではないでしょうか。
     パウロはそうは考えませんでした。
    キリストは分断と対立に満ちたこの世界に、
    赦しと和解、互いへの愛に基づく平和を作るために、
    この世に来られ、敵意と対立を十字架につけて、敵意を滅ぼし、
    キリストと一つに結ばれることによって、
    互いに神の家族の一員となることを可能にしたからです。
     キリストは赦しと和解、平和と一致をもたらすため、
    この世界に来られたのだとしたら、どこよりも、
    誰よりもまず、最初に、キリストをとおして神の民、
    神の家族とされた教会でこそ、赦しと和解、平和と一致が作られなければなりません。
    教会はこの世界に対して、神がこの世界に求める新しい生き方、
    あるべき人の関係の初穂、つまり最初の現実であるはずです。
    だからパウロはローマの人々の和解と一致をあきらめませんでした。
     だが、それは決して簡単なことではありません。
    わたしたちも含めて人間は罪びとだからです。
    簡単に他の人を疑い、蔑み、怒りを向け、敵意を抱きます。
    人間とはそのような存在であって、天使のようではないからです。
    そのような人間同士が、どうしたら赦しと和解を作り、
    愛に基づく生き方をすることができるのでしょうか。
    見上げるべき模範、目指すべき目標が必要です。
    それだからこそパウロは、キリストに目と心を向けさせるのです。
    「キリスト・イエスに倣って」とパウロは呼びかけます。
    キリストは近くにいてくださる、否、わたしたちの内に共にいてくださる方。
    だからキリストを知り、感じ、模範とすることができます。
     だが、キリストを見上げさえすれば、
    あとは自分の力でなんとかすべきなのでしょうか。
    いいえ、人の力を超えた助けがなければ無理です。
    だからこそパウロは、神がどのような方かを、ここで、
    このように言い表したのでした。「忍耐と慰めの源である神」と。
    神から来る忍耐と慰めなしには不可能だからです。
    思い通りにならない状況での忍耐強さと、
    落胆と失意に苛まれる不本意さの中で慰められること、
    それなしに誰が赦しと和解、平和と一致をあきらめず、
    求め続け、作り出そうとし続けることができるでしょうか。
     わたしたちが信じ、一つに結ばれている神の御子キリストが、忍耐深さを本性とし、
    慰めに満ちておられることを本質としているなら、
    わたしたちにも神の忍耐と慰めが及んでいます。
    そのことをパウロはここで示したのでした。
     さて、こうした問題は古代ローマ教会だけの問題でしょうか。
    いいえ。いつの時代でも教会はこの問題に直面してきました。
    だからパウロの言葉は、いつでもどこでも、教会にとって必要であり、
    歩む道を指し示すのです。
     教会だけ? いいえ、敵意と憎しみ、分断と対立は、
    まさにこの世界の、すべての人間の問題です。
    キリストは教会の中だけに平和を作るのではなく、
    この世界に平和と一致、赦しと和解を作るために来られました。
    教会はこの世界に対する初穂、最初の実りの印です。
    現代の世界がどのような現実にあるか、
    わたしたちは日々思い知らされています。
     神が世界を創造したとき、神は世界を見て「よい」と言われました。
    しかし、よいはずの世界を、人間の罪が損ない、
    分断と断絶、敵意と争いに満ちた世界に変えてきたのでした。
    キリストが世に来られたのは、罪を除き、この世界を神のものへと贖い、
    神と人、人と人の間に和解をもたらし、平和を作るためです。
    だからエフェソの信徒への手紙でパウロは、
    「キリストはわたしたちの平和」と告げるのです。
     でも、その平和はわたしたちに関わりなく、
    ひとりでに出来あがるものではありません。
    神が人をそっちのけにして勝手に作るものでもありません。
    キリストがこの世界にもたらす平和は、わたしたちがキリストと共に、
    キリストと一つとなって作るものです。
    平和の主と一つに結ばれているわたしたちが、
    神が与えてくださる忍耐によって、
    けっして諦めずに相手を赦し和解する道を求め続け、
    神が与えてくださる慰めによって、支えられ励まされ続けて、
    あきらめたり投げ出したりせずに平和を作り続けます。
     神からの忍耐と慰めは遠い天の彼方から来るのではありません。
    神からの忍耐と慰めは、
    わたしたちと共にいてくださる主イエス・キリストから来ます。
    だからキリストから来る神の忍耐と慰めは、常にわたしたちと共に、
    わたしたちの内に、この胸の奥にあります。わたしたちは、
    天の神から忍耐と慰めを渡されて、
    あとは自分たちで頑張りなさいと送り出されるのではありません。
    それは無理です。この世界に私たち人間だけで赦しと和解を実現し、
    キリストの平和を作り出すことはできません。
    もし人の力だけでできることなら、
    とっくの昔に世界には平和が実現していたことでしょう。
     わたしたちは神からの忍耐と慰めを受けて励まされ、
    力を与えられてたゆまず努力しますが、
    平和の主であるキリストが共にいてくださるからこそ、
    わたしたちは希望を持つことができます。

    なぜなら、主イエス・キリストにおいては、
    神の赦しと和解による平和が現実だからです。
    わたしたちは、キリストにおいて現実である平和と結ばれて、
    主イエス・キリストと共に生きてゆきます。
    主イエスこそ我が望みです。
    なぜなら、キリストから神の忍耐と慰めが来るからです。
     いつも心の内にキリストを感じるなら、
    わたしたちは和解と一致を求め続け、
    平和を作る者として歩み続けることができます。
    そう信じて、わたしたちがキリストと共に生きるとき、
    わたしたちははっきりと確信することになります。
    わたしたちの心と、わたしたちの口は、
    互いに悪口を言い、罵り、批判と裁きの言葉を言い合うためにあるのではないことを。
     わたしたちの心と口がなんのためにあるのか。パウロはこう告げ知らせました。
    昔、ローマのキリスト者たちに、今も、わたしたちに。

     心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を
     崇めさせてくださいますように。

週報より

  • 2025.06.29 週報より抜粋・要約

  • ① きょうの礼拝は石田学先生の担当でした。
    きょうは基嗣牧師は広島教会の礼拝で説教のため不在です。
    小山にはきょうの夜に戻って来る予定です。旅の安全のためにお祈りください。

    ② 来週の日曜日(7月6日)に、自宅〜教会間の送迎を試験的に行います。
    将来的に、教会〜自宅間の送迎を定期的に行えるようにと願っています。
    どのような形で実現可能なのかを探るため、7月の最初の日曜日に、
    送迎を希望される方々の自宅〜教会間の送迎を行ってみたいと思います。
    ご利用を希望される方は牧師または教会役員までお気軽にお声がけください。

    ③ 夏季献金のお願い
    牧師の夏の手当とピアノの調律のための献金です。
    受付テーブルに置いてある献金袋をご利用ください。

    ④ 来週の日曜日は礼拝後にランチの会を予定しています。
    メニューは、シニガンスープです。どうぞご予定ください。

    ⑤ 7月6日の礼拝について
    来週は、宣教師の方を説教者としてお招きします。
    当日は、リンクを知っている方のみ視聴できる方法での配信となります。
    当日の礼拝配信用のリンクが必要な方は、牧師までお知らせください。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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