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朗読箇所

公現後第3主日

イザヤ書 25:6–10


6 万軍の主はこの山で祝宴を開き
すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
7 主はこの山で
すべての民の顔を包んでいた布と
すべての国を覆っていた布を滅ぼし
8 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を
地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。
10 主の御手はこの山の上にとどまる。


ヨハネによる福音書 11:28–37

◆イエス、涙を流す
28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
35 イエスは涙を流された。
36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

説教

主イエスの涙はどこで流れる?

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    ヨハネによる福音書は、
    イエスさまが訪れたベタニアの村が
    大きな悲しみに包まれている
    様子を描いています。
    その悲しみの原因は、
    イエスさまの友人である、
    ラザロがイエスさまが村に到着する
    4日前に亡くなったことにあります。
    ラザロのきょうだいであった
    マルタとマリアも、
    そして彼らが暮らしていた
    ベタニアの村全体も、
    喪に服し、悲しみ、
    声を上げて泣いていました。
    このような人々の悲しみや
    それを引き起こしたラザロの死に
    触れた時のイエスさまの様子を
    ヨハネはこの物語の中で
    記録しています。
    その時、イエスさまは
    涙を流しました。


    その場にいた人たちは
    イエスさまのその涙を見て、
    「御覧なさい。
    どんなにラザロを
    愛しておられたことか」(36節)と、
    口にしています。
    そのため、一見、
    イエスさまのこの涙は、
    自分の愛する友である
    ラザロのことを思っての、
    悲しみの涙のように見えます。
    でも、もしかしたら、
    みなさんの中には
    イエスさまのこの涙に
    不自然さを抱く方も、
    いるかもしれません。
    というのも、イエスさまは
    ラザロが病気である
    という知らせを受けた時、
    「この病気は死で
    終わるものではない」(4節)
    と語っていました。
    死で終わるものではない。
    つまり、ラザロはよみがえる。
    そんな希望を既に、
    イエスさまは心に抱いた上で、
    ラザロが病気である
    という知らせを
    聞いていたはずです。
    それならば、ラザロとの
    再会の希望に溢れて、
    すぐさまラザロをよみがえらせる。
    そんな奇跡を起こせば
    良かったはずです。
    きっと神の子であるイエスさまは、
    そのようなことが出来たでしょう。
    それなのに、
    すぐに行動を起こさずに、
    イエスさまが涙を流したのは、
    なぜだったのでしょうか。
    その涙に、どのような意味が
    込められていたのでしょうか。


    イエスさまは、人間誰もが
    最後には向き合わなければいけない、
    死の現実にひどく憤りを覚えて
    涙を流したのでしょうか。
    それとも、やがて自分に
    待ち受ける十字架の上での死を
    ラザロの死を通して見つめて、
    涙を流したのでしょうか。
    またそれとも、
    「あなたの兄弟は復活する」(23節)と、
    ラザロ復活の希望を示した後なのに、
    未だに悲しみ続ける
    人々の姿に憤りを覚えて、
    イエスさまは涙を流したのでしょうか。
    イエスさまの涙の理由について、
    立ち止まって考えてみると、
    思いの外、色々な可能性が考えられます。
    けれども、きっと、
    イエスさまの涙の理由を
    たったひとつだけと思い込んだり、
    決めつけたりする必要はないでしょう。
    というのも、ヨハネはここで、
    イエスさまが心を騒がせていたと
    書いているからです。
    人々がラザロの死を
    悲しむ様子を見て、
    イエスさま自身も
    様々な思いを抱き、
    心をかき乱されて、
    涙を流したのではないでしょうか。
    私は、イエスさまが
    神であり、人間であることが
    ここによく現れていると思います。
    だって、神の子として、
    イエスさまはラザロの復活を
    知っているはずです。
    神の子であるイエスさまは、
    人間誰もが死から逃れられない現実を
    よく知っておられます。
    そのため、死の前に無力であり、
    人々が復活の望みを信じきれない現実に
    悲しみ、憤りを覚えていたことでしょう。
    そして、その一方で、
    ラザロの友である、一人の人間として、
    イエスさまはラザロの死に
    深く心を痛めています。
    ラザロを失って悲しむ人々の様子を見て、
    彼らの悲しみに共感し、
    一緒に涙を流しています。
    神であり、人間である、
    イエスさまが抱えた、
    そんな複雑な思いに、
    イエスさまは心をかき乱されます。
    そして、その結果として、
    イエスさまは涙を
    流したのではないでしょうか。


    ヨハネは、イエスさまの流したこの涙を
    立ち止まって見つめてほしいと、
    私たちに語りかけているかのような
    書き方をしています。
    それは、新約聖書が書かれた
    もともとの言葉であるギリシア語で、
    イエスさまのこの涙だけ、
    物語の中で他の人が泣いたときとは
    異なる単語を使っているからです。
    ラザロは復活することになっている。
    死んだけれども、
    イエスさまによって命が与えられる。
    そんな希望を心に抱く一方で、
    現に、ラザロの墓の前に
    イエスさまは立たなければいけません。
    ラザロの死という現実が、
    取り消されるわけではありません。
    ですから、その悲しみが
    全くないもののように
    振る舞うことなどできません。
    悲しみ、嘆き、
    涙を流すマルタやマリア、
    そしてベタニアの人々に
    復活の希望を抱いてほしいと願いながらも、
    イエスさまは彼らの悲しみに
    共感を覚え、涙を流しました。
    このイエスさまの涙を
    見つめて欲しい。
    なぜイエスさまが泣いているのか。
    そして、どこを見つめて
    イエスさまが泣いているのか。
    立ち止まって見つめて欲しい。
    ヨハネはそんな願いを込めながら、
    イエスさまが涙を流した姿を
    私たちに紹介しています。


    この時、涙を流したイエスさまが
    見つめるその先にあったのは、
    ラザロの身体がおさめられたお墓です。
    それは、人々がイエスさまに
    「来て、ご覧ください」(34節)と言って、
    イエスさまを案内したからです。
    来てください。
    そして、見てください。
    イエスさまを案内した人々は、
    自分たちでは
    もうどうすることもできない、
    希望を持つことなどできない、
    そんなラザロの墓を指さします。
    そこはまさに、
    その時の彼らにとって、
    深い悲しみと
    苦しみのある場所でした。
    そして、諦めと敗北の
    象徴のような場所でした。
    どうか、そのような場所に来て、
    見てくださいと、
    彼らは悲しみ、涙を流しながら、
    イエスさまに伝えています。
    そして、そんな彼らの言葉を
    聞いたイエスさまは、
    彼らの置かれている状況に共感します。
    彼らと一緒にラザロの死を悲しむように、
    イエスさまは涙を流しました。
    けれども、イエスさまは
    単に人々と同じ悲しみを味わい、
    一緒に涙を流すことによって、
    彼らへの共感を示すために、
    ラザロの墓を訪れ、
    その死の現実を見たのではありません。
    イエスさまが流した涙は、
    悲しみだけに
    支配された涙ではありません。
    また、諦めや落胆の涙でもありません。
    ラザロの命を諦めることができない。
    そんな愛情に溢れた涙でした。
    その生命が損なわれ、失われることを
    悲しみ、苦しみ、心乱されるほどに
    愛してやまないラザロに
    命をもたらすために、
    イエスさまは来て、
    ラザロの墓を見つめました。


    「来て、見てください」と、
    涙を流しながら、
    悲しみ、悩みながら、
    イエスさまにお願いするのは、
    私たちだって同じです。
    ベタニアの人々が
    ラザロのお墓の前にイエスさまを
    連れて来たように、
    私たちだって、希望のない場所、
    悲しみや苦しみのある場所に、
    イエスさまに来てくださいと
    願い続けています。
    私たちが涙を流し、失望する場所に、
    イエスさまが訪れてくださることは、
    私たちの心からの願いだからです。
    けれど、それは私たちの願いである以上に、
    イエスさまの願いです。
    私たちが涙を流す場所は、
    私たち以上に、イエスさまが
    愛を注いでおられる場所でもあるからです。
    だから、イエスさまは
    私たちが涙する場所で、
    私たちに寄り添い、
    一緒に涙を流してくださる方です。


    きょうの説教題ですが、悩んだ末に、
    「主イエスの涙はどこで流れる?」
    と付けました。
    私たちへの愛ゆえに
    涙を流すイエスさまは、
    決して、ラザロのためだけに、
    ラザロの墓の前で
    涙を流したわけではありません。
    また、イエスさまが訪れて涙を流す場所が
    お墓の前に限定される
    わけでもありません。
    私たちが「主よ、来て、見てください」と
    涙を流しながら訴える場所にこそ、
    イエスさまは来て、
    私たちと一緒に涙を流してくださいます。
    命の回復を願いながら、
    イエスさまはいつでも
    私たちと共にいてくださる方だからです。


    けれども、その一方で、
    イエスさまが涙を流していることを
    私たちが気づいていない場所だって
    たくさんあるでしょう。
    私たちが気づかないでいる、
    誰かの悲しみや苦しみが
    広がる場所があります。
    私たちが無視してしまっている、
    気づかないふりをしてしまっている、
    誰かの涙が流れ、
    叫び声が響く場所があります。
    そんな場所にも、
    いや、そんな場所にこそ、
    イエスさまは来て、
    一緒に涙を流しておられます。
    愛を注ぎ、命をもたらすために、
    イエスさまは諦めずに、
    一緒に居続けてくださいます。
    ただ、イエスさまが気づいて、
    涙を流してくれるから大丈夫。
    というわけではないでしょう。
    イエスさまが教え、
    使徒パウロを通して、
    神が私たちに向かって勧めていることは、
    泣く者と共に、泣くことです(ローマ12:15)。
    イエスさまの姿を見て、
    イエスさまのように生きたいと願うならば、
    それは単に泣くこととは違うと思います。
    涙を流すイエスさまが
    願っているのは、
    傷ついた命が
    回復へと向かっていくことです。
    ですから、イエスさまの涙に気づくならば、
    私たちはイエスさまと一緒に、
    誰かと一緒に泣く道を選びようにと、
    招かれています。
    その涙が乾いて、
    豊かな命が取りも出されることを
    神に祈り、一緒に願い続けるようにと
    私たちはイエスさまから招かれています。
    きょう、イエスさまの涙は、
    どこで流れているのでしょうか。
    イエスさまは何に
    悲しみや憤りを覚えて、
    涙を流しておられるのでしょうか。
    正義のない場所でしょうか。
    愛の欠けている場所でしょうか。
    平和がない場所でしょうか。
    誰かの尊厳が傷つき、
    命が蔑ろにされる場所でしょうか。
    ニュースで報じられる場所でしょうか。
    私たちが毎日、散歩や通勤のために
    通る場所でしょうか。
    イエスさまが涙を流す場所は、
    数え切れないほど多くあるでしょう。
    けれども、どうか日常の中で、
    イエスさまが誰かと共に
    涙を流していることに気づいたとき、
    勇気をもって小さな一歩踏み出し、
    共に泣く道を選ぶことができますように。
    私たちはこの社会の中で悲しむ
    誰かと共に泣く道を
    希望の内に歩むことができます。
    だって、主イエスにあって
    涙が乾く日の訪れを
    待ち望むことができるからです。
    私たちが悲しみ、嘆き、叫ぶ場所に、
    どうか愛にあふれる神が
    訪れてくださいますように。

週報より

  • 2026.01.25 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に月報『モレノ』編集会を行います。
    モレノ編集チームのみなさま、よろしくお願いいたします。
    モレノ編集チームは、みなさまの原稿・写真・絵などの投稿を募集しています。
    エッセイ、詩、書籍や映画などの紹介文などをご自由にご寄稿いただけます。

    ② 教会名簿の更新時期となりました。
    名簿に掲載する情報に変更がありましたら、
    2月8日(日)までに牧師にお知らせください。

    ③ 【公告】 年次教会総会のお知らせ
    2月15日 (日)の礼拝後に、年次教会総会を開催します。
    教会員の皆さまはご出席ください。
    やむを得ず欠席をされる方は、委任状のご提出をお願いします。
    委任状の書式はとくにありません。
    委任状は、LINEでのメッセージやメールでも提出可能です。

    ④ 外壁塗装のための献金へご協力お願いします。
    外壁塗装のための献金にご協力いただける方は、
    受付正面の壁にかけてある献金袋や予約献金の申込用紙をご利用ください。
    外壁塗装の献金は目標金額(145万円)まで残りおよそ11万円です。

    ⑤ 次週礼拝後、月例教会役員会を行います。
    主な議題は、年次教会総会の準備です。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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