小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ   >   礼拝説教・週報   >  「行きなさい」と主は言われる、どこへ?

朗読箇所

復活節第3主日  

旧約 ゼカリヤ書9:9


:9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、
歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。


新約 マルコによる福音書10:46-52

◆盲人バルティマイをいやす
46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

説教

「行きなさい」と主は言われる、どこへ?

音声を聴く

  • パレスチナ問題に関心のある方は、
    今のエリコがパレスチナ暫定自治政府に属し、
    しかし現在、イスラエルによって、
    ほぼ封鎖されていることをご存じでしょう。
    この町はずっと、
    何千年も前の古代から、現代に至るまで、
    重要拠点であり、争いの場であり、
    特別な意味を持つ町であり続けて来ました。
    エジプトでの奴隷から解放されたヘブライ人は、
    その後四十年の長きに亘って、
    荒れ野をさ迷い続けてきました。
    ようやく約束の地と信じるカナンに入る、
    その最初の関門となったのが、
    堅固な城壁に囲まれた要塞都市エリコでした。
    古代からエリコは、
    ヨルダン川を渡ってエルサレムに向かう、
    唯一の街道沿いにある町でした。
    ヨルダンの東からエルサレムに向かうには、
    エリコを通る必要があります。
    だから都エルサレムを目指すイエス様と、
    弟子たち、従って来る大勢の群衆は、
    エリコの町を通り抜けなければなりません。
    マルコの記述の仕方からすると、
    一行はエリコに着いてすぐ、
    そのままエリコを出て行ったかのようです。
    実際、そうだったのでしょう。
    エリコに滞在することなく、
    そのままエルサレムを目指してゆくのです。
    エリコを出発すれば、
    都エルサレムはもうすぐです。
    早く歩くことができる人なら、
    急げば一日で行き着く距離です。
    標高マイナス200メートルのエリコから、
    海抜800メートルのエルサレムまで、
    高低差千メートルの上り坂ですが。
    イエス様と弟子たち、大勢の群衆が、
    いまエリコを通過します。
    いよいよエルサレム到着は目前です。
    メシアが都エルサレムにと入る。
    その出来事を詩編24編の詩人は夢見て、
    こう歌い上げました。


    城門よ、頭を上げよ
    とこしえの門よ、身を起こせ。
    栄光に輝く王が来られる。
    栄光に輝く王とは誰か。
    万軍の主、主こそ栄光に輝く王。


    メシアが来てエルサレムに入城する、
    その光景を歌うこの詩編は、
    誰もが良く知る歌でした。
    エルサレムを目指す弟子たちと群衆は、
    この行進がまさに、
    この詩編の実現だと思い描いたことでしょう。
    想像の中で栄光に輝くその情景が、
    群衆の心をかきたてます。
    一歩一歩と都に近づき、
    いよいよエリコを通過することで、
    人々の気分は高揚し、
    興奮と熱狂が集団心理となるにつれ、
    彼らの気持ちも変化してきます。
    イエス様が三度も語って聞かせた、
    エルサレムでの受難予告など、
    もう人々の頭から消えてしまいました。
    三回目の受難予告の時には、
    エルサレムで起こるかもしれない出来事に、
    不安と恐れを抱いていたことなど、
    もはや思い出しもしません。
    「大勢の群衆」とマルコは言います。
    何人くらいいたのかはわかりません。
    しかし、大勢でエルサレムへと行進し、
    その先頭を主イエスが行きます。
    めざすは都エルサレム。
    栄光の王としてエルサレムの城門をくぐる。
    その光景がもうすぐ現実となる。
    その期待感で人々の胸は高鳴ります。
    ところが、栄光への行進をする一向に向かって、
    町外れの道端に座る物乞いが、
    イエス様が通ると知って、
    大声で叫び出すのです。


    ダビデの子よ、憐れんでください。


    まったく場違いな叫びです。
    いま群衆を扇動するのは来たるべきメシア。
    栄光の王が勝利の行進をしているのに、
    その高揚した気分に水を差すかのような、
    空気の読めない叫び声です。
    栄光へと向かう聖者の行進を邪魔する、
    この盲目の物乞いに向かって、
    人々が怒鳴り、叱りつけます。
    「だまれ、へんなことを言うな、
    行進のじゃまだ」。
    ああ、弟子たちも群衆も、
    すっかり忘れてしまったようです。
    主イエスは最初からずっと、
    人々に憐れみを求め、
    主イエスは憐れんで病を癒し、
    憐れみのゆえに手を延べて触れ、
    憐れんで悪霊を追放したことを。
    しかし、主イエスに従う群衆の目に映るのは、
    憐れみ深い主ではなく、
    エルサレムへと勝利の行進をする栄光の王。
    従う弟子たちや群衆の誰一人として、
    この方が憐れみの主であることを、
    思い出しもしません。
    ただ一人の例外を除いて。
    たった一人、盲目の物乞いだけが、
    この方は憐れみの主であると知っています。
    だから、彼は叫びます。
    「主よ、憐れんでください」。
    人々はこの男を場違いな無礼者として、
    叱りつけて黙らせようとします。
    しかし、彼は人々の制止を振り切って、
    叫び続けるのです。
    「主よ、憐れんでください」と。
    バルティマイという名の盲人は、
    よくわかっています。
    これが彼にとって最初で最後の機会だと。
    二度と主イエスが前を通ることはないと。
    誰が止めようが気にしません。
    憐れみ深い主イエスに向かって叫び続けます。
    「憐れんでください」と。
    憐れみを願う声を主イエスはこれまで、
    一度たりと切り捨てたことがあるでしょうか。
    たった一つのその声を聞き分けた主イエスは、
    立ち止まって人々に命じます。


    あの男を呼びなさい。


    今まで男を叱りつけて黙らせようとした群衆が、
    一転して、この男に告げます。


    気を取り直せ。
    立て、おまえを呼んでおられる。


    どうやら、群衆はこの時も、
    憐れみを思い出したわけではなさそうです。
    盲目のこの男を使って、
    主イエスは何かをしてみせるのだろう。
    そう期待したに違いありません。
    おそらくそんな群衆の期待に反して、
    イエス様はドラマチックな何かを実演することなく、
    この人に向かって、彼の望みを尋ねます。
    「何をしてほしいのか」。
    この盲目の物乞いが答えます。
    「目が見えるようになりたいのです」。
    なんだ、結局はただの盲人の癒しか。
    群衆は少しがっかりしたことでしょう。
    栄光への行進にふさわしい、
    何事かが起きると期待したでしょうから。
    しかし、この出来事は、
    なんと大きな意味があることでしょうか。
    二つのことがはっきりと表されたのですから。
    なによりもまず重要なことは、
    改めて主イエスは憐れみの主であることが、
    エルサレムへと進んで行くその道、
    十字架への道の途上で表されたことです。
    神の御子が人となって世に来られたのはなぜか。
    それは神が世の人を深く憐れんだからです。
    その時弟子たちも群衆も、
    神の御子は栄光への行進をしていると思いました。
    しかし、それは苦難と十字架への道です。
    なぜ主イエスは十字架の道を歩まれるのか。
    それは、神が憐れみのゆえに、
    世の罪を自らに負い、罪をあがなうためです。
    「憐れんでください」。
    この求めに応えるために、
    主イエスは世に来られました。
    そのことが、エルサレムを目前にした、
    その道の途上で明らかにされました。
    そして、この盲人の癒しは、
    主イエスがおこなわれた、
    最後の癒しのわざでもありました。
    もう一つ明らかにされたことがあります。
    それは盲人の求めに対する、
    主イエスの言葉によって明らかにされます。
    「目が見えるようになることです」。
    主イエスに望みをおき、
    こう願ったこの人に向かって、
    主は「見えるようになれ」とは言いません。
    「願い通りになれ」とも言いません。
    かわった言葉を宣言します。


    行け。
    あなたの信仰があなたを救った。


    たしかに盲目の目は開かれ、
    見えるようになりました。
    しかし、主イエスはただ目を開いたのではなく、
    この人の魂の願いを聞かれました。
    見えるようになりたい。
    それはこの人の切実な願いでした。
    しかし、ほんとうに重要なことは、
    目が見えるようになることが終着点ではなく、
    目が見えるようになってからの、
    この人の生き方、この人の目標。
    それがなけれが意味はありません。
    「行け」という命令は、
    間違いなく、派遣の言葉です。
    彼はいま、イエス様によって、
    遣わされて行くのです。
    これまでもいろいろな人がイエス様に癒され、
    「行け」と命じられました。
    行くべき先はさまざまです。
    「家に帰れ」という意味で言われた人がいます。
    盲人であったこの男も主イエスに言われます。
    「行きなさい」と。
    どこへ?
    彼は道を進まれる主イエスに従う仕方で、
    そこから出て行きました。
    それまでと同じままでではありません。
    彼は今や、主イエスによって、
    「あなたの信仰があなたを救った」と宣言され、
    事実、信仰によって救われたのですから。
    わたしたちが主イエスに救われるのは、
    自分のよいおこないでも、
    自分の力によってでもありません。
    主イエスに信頼して憐れみを願う信仰。
    それだけがわたしたちの救いの源泉であり、
    根拠であり、保証です。
    「あなたの信仰があなたを救った」。
    この言葉は、今もわたしたちに宣言されます。
    ただ主イエスに信頼を寄せ、
    憐れみを願い求めること。
    それだけがわたしたちを主イエスと一つに結び、
    そのきずなのゆえに、
    わたしたちは神の子とされ、
    天に国籍を持つ者とされています。
    それはわたしたちの喜びであり感謝です。
    だが、それだけでは、
    わたしたちはその場所に留まったままです。
    主イエスはもう一つの言葉も告げ、
    わたしたちは今もその言葉を聞きます。
    「行け」と。
    だからわたしたちは何も変わらず、
    そのままじっとしてはいられません。
    「行け」という言葉は、
    わたしたちに動くことを命じるからです。
    物理的に動くこともあるでしょうが、
    それ以上に、霊的な意味で。
    わたしたちはこの世の定住者として、
    この世界の中にずっと留まり、
    この世界の中で生涯を終わることはありません。
    わたしたちはたとえ同じ場所で生きていても、
    「行け」と命じられています。
    いったい、どこへ?
    人それぞれ、遣わされてゆく場所は違います。
    この男は、主イエスに従ってゆく道へと、
    遣わされて行きました。
    わたしたちは?
    人それぞれです。
    だが、誰でも主イエスを信じて救われた者は、
    みな、遣わされてゆきます。
    それぞれの果たすべき使命へと、
    それぞれの生活の場へと、
    それぞれの働き場へと、
    それぞれの家へと、
    あるいは主イエスのための働きへと、
    そしてそれが何であれ、
    それぞれの喜んで歩むべき道へと。
    大切なことは、
    わたしたちが無自覚なまま、
    漫然とこの世界の定住者でいるのではなく、
    自分がどこに、なにに遣わされているか、
    そのことを考えて生きて行くことです。



    説教者 石田学牧師


週報より

  • 2021.04.18 週報より抜粋・要約

  • ・新型コロナウィルス対策について
    新型コロナウィルスのワクチン接種が
    小山市でも始まります。
    ごく限られた高齢者だけが当面の対象で、
    広く行き渡るのは
    もうしばらく先になりそうです。 
    教会としては従来どおりの対策を
    お願いしてまいります。
    教会は毎回、ベンチやドアなどの
    アルコール消毒をおこなっています。
    皆さまは入口で手の消毒と、
    室内でのマスク着用をお願いします。
    讃美歌は歌いますが、
    少し声量は抑え気味でお願いします。
    礼拝を続けてゆくためにも、
    皆さまふだんの生活にご注意ください。
    心配な方は、どうぞご自宅で
    YouTube礼拝にご参加ください。
    現在、教会実習の吉田さんがチャット欄に
    週報を入力してくれています。
    他にもホームページの音声説教配信、
    郵送での手紙・説教などにより、
    充分ではないにしても、
    礼拝に参加できますので、
    よろしくお願いします。

    ・月報『モレノ』5月号ができました。 
    原稿執筆、製作くださった方に感謝します。
    週報棚、受付テーブルにありますので、
    ご覧ください。

    ・そろそろ雑草の伸びる季節になりました。
    十分間除草(十分間で終了します)します。
    今年の第一回を
    来週の礼拝後にしたいと思いますので、
    ご協力くださる方はよろしくお願いします。
    月に二回くらいのペースで
    実施できればと考えています。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


  • 以上

フッター画像