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朗読箇所

待降節第3主日

サムエル記 下 11:1-27

◆ウリヤの妻バト・シェバ
1 年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。
2 ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。
3 ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。
4 ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、
5 子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。
6 ダビデはヨアブに、ヘト人ウリヤを送り返すように命令を出し、ヨアブはウリヤをダビデのもとに送った。
7 ウリヤが来ると、ダビデはヨアブの安否、兵士の安否を問い、また戦況について尋ねた。
8 それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って足を洗うがよい。」ウリヤが王宮を退出すると、王の贈り物が後に続いた。
9 しかしウリヤは王宮の入り口で主君の家臣と共に眠り、家に帰らなかった。
10 ウリヤが自分の家に帰らなかったと知らされたダビデは、ウリヤに尋ねた。「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか。」
11 ウリヤはダビデに答えた。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」
12 ダビデはウリヤに言った。「今日もここにとどまるがよい。明日、お前を送り出すとしよう。」ウリヤはその日と次の日、エルサレムにとどまった。
13 ダビデはウリヤを招き、食事を共にして酔わせたが、夕暮れになるとウリヤは退出し、主君の家臣たちと共に眠り、家には帰らなかった。
14 翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。
15 書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた。
16 町の様子を見張っていたヨアブは、強力な戦士がいると判断した辺りにウリヤを配置した。
17 町の者たちは出撃してヨアブの軍と戦い、ダビデの家臣と兵士から戦死者が出た。ヘト人ウリヤも死んだ。
18 ヨアブはダビデにこの戦いの一部始終について報告を送り、
19 使者に命じた。「戦いの一部始終を王に報告し終えたとき、
20 もし王が怒って、『なぜそんなに町に接近して戦ったのか。城壁の上から射かけてくると分かっていたはずだ。
21 昔、エルベシェトの子アビメレクを討ち取ったのは誰だったか。あの男がテベツで死んだのは、女が城壁の上から石臼を投げつけたからではないか。なぜそんなに城壁に接近したのだ』と言われたなら、『王の僕ヘト人ウリヤも死にました』と言うがよい。」
22 使者は出発し、ダビデのもとに到着してヨアブの伝言をすべて伝えた。
23 使者はダビデに言った。「敵は我々より優勢で、野戦を挑んで来ました。我々が城門の入り口まで押し返すと、
24 射手が城壁の上から僕らに矢を射かけ、王の家臣からも死んだ者が出、王の僕ヘト人ウリヤも死にました。」
25 ダビデは使者に言った。「ヨアブにこう伝えよ。『そのことを悪かったと見なす必要はない。剣があればだれかが餌食になる。奮戦して町を滅ぼせ。』そう言って彼を励ませ。」
26 ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆いた。
27 喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。彼女は男の子を産んだ。ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。


マタイによる福音書 1:1-17

◆イエス・キリストの系図
1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、
3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、
4 アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、
5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、
6 エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、
7 ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、
8 アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、
9 ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、
10 ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、
11 ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
12 バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、
13 ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、
14 アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、
15 エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、
16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
17 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

説教

声なき声を受け止めるために

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    イエス・キリストの系図を眺めてみると、
    実にたくさんの名前が並んでいます。
    一人ひとりの名前のその背後には、
    色々な物語があります。
    アブラハムやヤコブ、
    ルツやダビデのように、
    その名前を聞くだけで、
    物語を思い出せるような人もいれば、
    アゾルやエリウドのように、
    全くその物語が知られていない
    無名の人たちだっています。
    ただ、名前がよく知られていたか
    どうかにかかわらず、
    この長い系図はきちんと各世代の
    代表者たちの名前を書き留めて、
    イエス・キリストの出自を
    伝えようとしています。
    時代も文化も異なる私たちにとって、
    このような系図は単なる
    記号の羅列にも見えてしまいます。
    けれども、聖書には
    いくつもの系図が記錄されています。
    それは、ユダヤの人たちにとって、
    自分の出自を伝える上で、
    系図がどれほど重要であったのかの
    証しだと言えるでしょう。
    そんな風に系図に記されている
    名前のこの羅列の大切さを思いながら、
    この系図を読んでみるとどうでしょうか。
    ひとつ不思議な点に気づきます。
    この系図にはたった一人だけ、
    きちんと名前が
    紹介されていない人がいるのです。
    そこにはこのように書かれています。
    「ダビデはウリヤの妻によって
    ソロモンをもうけ」と。


    聖書を読んだことがなかったとしても、
    またキリスト教に馴染みがなかったとしても、
    ダビデもソロモンも、
    よく知られている聖書の登場人物です。
    彼らはイスラエルの偉大な王でした。
    そんなダビデやソロモンという
    輝かしい名前に挟まれて、
    「ウリヤの妻」とだけ記され、
    名前が隠されている女性がいます。
    もちろん、マタイが紹介する、
    イエス・キリストの系図に、
    まったく女性の名前が
    出てこないというわけではありません。
    タマル、ラハブ、ルツ、
    そしてイエスさまの母マリアの名前が
    この系図にはきちんと記されています。
    ですから、この系図は
    女性の名前は記さない、
    というような指針のもとで記錄された
    というわけではありません。
    それならば、なぜソロモンの母親だけ、
    「ウリヤの妻」と記され、
    名前が隠されているのでしょうか。


    「ウリヤの妻」が誰であるのか、
    旧約聖書の物語に馴染みのある、
    ユダヤの人々にとっては、
    実に明白なことだったと思います。
    彼女の名前は、バト・シェバ。
    さきほど読んだ旧約聖書の物語の中に
    登場した女性です。
    そこには、ダビデの大きな過ちが
    記錄されています。
    彼女は、ウリヤの妻である
    バト・シェバを寝取ります。
    そんな自分の罪を覆い隠すために、
    ダビデはウリヤが戦場で
    命を落とすように働きかけました。
    理想的な王として
    紹介されているダビデの、
    欲望にまみれ、不正義に生きた、
    とても暗い部分が
    紹介されています。
    マタイはバト・シェバの名前のみを
    「ウリヤの妻」と書いて
    あえて隠すことによって、
    このようなバト・シェバの物語を
    より目立たせています。
    そして、隠されているからこそ余計に、
    私たちの目は、より注意深く、
    ダビデとバト・シェバの物語に
    向いていくことになります。


    サムエル記が紹介する物語において、
    バト・シェバはどのように
    描かれているでしょうか。
    物語において、彼女はとても受動的です。
    受動的なバト・シェバとは対照的に、
    ダビデからバト・シェバに
    向けられた行動が、
    物語の中では矢継ぎ早に
    紹介されています。
    ダビデはバト・シェバを見つめます。
    そして、人を遣わして、
    彼女について調査します。
    彼女のことを知るとすぐさま、
    ダビデは彼女を
    自分のもとに呼び出しました。
    バト・シェバはそんなダビデの行動を
    何の抵抗もできずに、
    受け止める側です。
    もちろん、彼女は
    ダビデの呼び出しに応じて、
    ダビデのもとに来たため、
    彼女が完全に受動的では
    なかったようにも見えます。
    けれども、彼女の置かれた立場を
    想像するならば、
    決して彼女は自ら進んで、
    ダビデのもとへ行ったとは
    言えないでしょう。
    基本的に、彼女は
    権力構造の中にいます。
    彼女の夫ウリヤの一番の上司は、
    王であるダビデです。
    夫のウリヤがダビデに従うように、
    ダビデに従うべきことは、
    彼女にとって当然のことでした。
    そして、男性優位の社会において、
    彼女は王をはじめ、
    男性たちの前で力を持ちません。
    ですから、ダビデとバト・シェバの
    ふたりの関係において、
    バト・シェバの方が圧倒的に
    弱い立場にありました。
    そのため、彼女には
    ダビデの呼び出しに応じるしか
    選択肢がありませんでした。
    そんな権力構造、支配構造の中で、
    ダビデがウリヤの妻を寝取るという、
    この事件は起きています。
    現代的に表現するならば、
    この出来事は、バト・シェバが
    ダビデから性暴力の被害を受けた
    とも表現できるでしょう。


    このように、彼女は、
    ダビデの大きな権力の前に、
    ただ従うしか道がありません。
    そして、彼女は自分の身に
    降りかかる出来事に対して、無抵抗で、
    ただただ受け身であるだけでなく、
    彼女の声も奪われています。
    彼女の発言は、
    「私は子を宿しました」のみです。
    自分の被害を伝える、
    最低限の言葉を伝えるのみで、
    彼女はそれ以上の言葉を
    語ることができません。
    彼女の訴えは、
    ダビデの権力や
    彼を守ろうとする人々によって、
    押しつぶされたのかもしれません。
    もしくは、彼女が心に大きな傷を負い、
    声を発せなくなったのかもしれません。
    そう考えると、この物語は、
    単にダビデの罪を記録する物語とは
    違って見えてきます。
    ダビデが権力を利用して
    行ったあの暴力によって、
    被害者である、バト・シェバが
    どれほど言葉を奪われているのか。
    彼女がどれほど主体性を、
    自分の意思で決定し、行動する力を
    奪われているのか。
    そのような、ダビデによる暴力の
    被害者であるバト・シェバの
    物語としても読めてきます。
    もちろん、この物語で描かれている
    被害者はバト・シェバだけではありません。
    彼女の夫である、ウリヤもまた、
    ダビデの政治的・社会的な権力の前で、
    被害を受け、命を奪われた一人です。
    彼はどこまでも、神に対しても、
    またダビデ王に対しても、
    忠実であろうとしました。
    けれども、ダビデの罪を隠し通すために、
    ウリヤの命は戦場で奪われました。
    ウリヤもまた、ダビデの暴力の前に、
    声を奪われた被害者です。


    バト・シェバやウリヤのように、
    自分よりも大きな力による
    暴力に晒され、
    抵抗できずに声を奪われる。
    そのような被害者の声なき声は、
    この世界のありとあらゆるところで
    聞こえてきます。
    性暴力やデートDVだけの話ではありません。
    国家や民族間の戦争だけに
    とどまるものでもありません。
    家族に向けられた
    あらゆる形での虐待によっても、
    あらゆる差別や偏見に基づく、
    暴力によっても、
    そのような声なき声は
    生み出されています。
    国籍や文化、話す言語、年齢、
    性自認、社会的な立場などといった、
    お互いの違いや多様性を喜べず、
    かえって力関係を生み出し、
    誰かを虐げるための材料と
    してしまっています。
    多くの場合、被害を受ける人々の
    名前は知られていません。
    今でこそ、匿名という形で、
    ソーシャルメディアを通して
    届きやすくなったとはいえ、
    被害を受ける人々の声は
    多くの場合、気づかれないままです。
    キリストの系図に記された
    「ウリヤの妻」という言葉はまるで、
    私たちが生きる世界の
    このような現実を
    指摘しているかのようです。
    キリストの系図がバト・シェバの物語へと
    目を向けるように促しているからこそ、
    私たちはキリストの誕生へと
    至るまでの物語において、
    こういった暴力から決して
    目を背けることができません。


    もちろん、キリストの系図で
    バト・シェバの名前が伏せられているのは、
    私たちの生きるこの世界の現実を
    指摘するためだけではありません。
    むしろ、ありとあらゆる暴力によって
    声なき声を生み出してしまっている、
    私たちの世界に平和をもたらす方が、
    訪れることを指し示すためです。
    イエスさまは、私たちの
    あらゆる声に耳を傾け、
    私たちの声にならない声さえも
    受け止めてくださる方です。
    さらなる暴力を生み出し、
    声なき声をさらに生み出すのではなく、
    この暴力の連鎖を止めるために、
    イエスさまは来てくださいました。
    その方法は、イエスさまが圧倒的な力で、
    この世界をねじ伏せ、
    大きな暴力で黙らせる
    というような方法ではありませんでした。
    力による支配や、
    武力による牽制によって
    平和が訪れることはありません。
    そのようなことは、
    現代の国際社会を見れば、
    よくわかるでしょう。
    イエスさまが選んだ方法は、
    暴力に晒され、
    声なき声を上げる人々のもとを
    イエスさま自身が訪れることでした。
    それは、人間の妬みや憎しみのただ中へと
    神の子であるイエスさまご自身が
    飛び込んでいき、
    イエスさま自身が傷ついてくことに
    他なりませんでした。


    きょうはヘブライ人への手紙を
    礼拝のはじめに開きました。
    そこでは、イエスさまが
    大祭司として紹介されています。
    祭司は、神と人間との間に立って、
    人々のためにとりなし祈る存在です。
    イエスさまは、この世界の
    あらゆる力に晒され、
    深く傷つき、涙を流しながら、
    その大祭司としての役割を果たしました。
    私たちが抱える、
    声なき声を受け止めて、
    神の守りと平安を祈り続けるために、
    イエスさまは私たちのもとに
    来てくださいました。
    何よりも、声なき声を生み出し続ける
    この世界の暴力が止まるために。
    その暴力を生み出し続ける
    人間の罪の連鎖を断ち切るために。
    イエスさまは私たちのもとに
    来てくださいました。
    ですから、あらゆる暴力によって、
    声なき声があふれる
    この世界で生きる私たちにとって、
    イエス・キリストの訪れは、
    希望の訪れです。
    声なき声を生み出し続ける、
    人の罪や悪による
    暴力の連鎖を終わらせ、
    平和に生きる道を
    イエスさまがもたらしてくださるからです。


    ですから、私たちは平和の主の訪れを
    心から祈り続けます。
    私たちや私たちの友人や家族、
    私たちの生きる社会が抱える
    声なき声や叫び声を
    イエスさまが聞いて、受け止めて、
    その場所に訪れてくださいますように、と。
    押しつぶされ、無視されてきた声を
    安心して口にすることができる。
    そんな平和な場所が
    平和の主であるイエスさまの訪れによって、
    この世界に広がっていきますように。
    私たちはそんな世界のあり方を夢見て、
    平和を祈り求め、
    平和に生きることを
    いつもこの場所から、
    教会の交わりから始めていきましょう。
    平和の主であるキリストが
    ここに、みなさんのもとに、
    訪れてくださっているのですから。

週報より

  • 2025.12.14 週報より抜粋・要約

  • ① きょうの礼拝後に礼拝堂の電球をLEDに交換予定です。
    熊谷哲郎さんが作業をしてくださいます。
    作業に数名お手伝いが必要です(哲郎さんの補助や脚立を支えるなど)。
    ご協力をいただける方は、どうぞよろしくお願いします。

    ② キャンドルサービスとクリスマス礼拝・祝会のご案内
    今週土曜日19:30よりキャンドルサービスを予定しています。
    今回は朗読劇を織り交ぜた礼拝を予定しています。
    朗読劇の練習をきょうの礼拝後に行います。担当の方はよろしくお願いします。
    また、次の日曜日はクリスマス礼拝とクリスマス祝会(礼拝後)です。
    祝会の食事は例年通り、持ち寄りの食事会の予定です。
    持ち寄りの食べ物は無理なさらなくて大丈夫です。
    可能な方は、食べ物飲み物をお持ち寄りください。
    キャンドルサービスとクリスマス礼拝の日は、
    やくしんミートセンターの駐車場をご利用いただけます。

    ③ 外壁塗装のための献金へご協力お願いします。
    外壁塗装のための献金にご協力いただける方は、
    受付正面の壁にかけてある献金袋や予約献金の申込用紙をご利用ください。
    外壁塗装の献金は目標金額(145万円)まで残りおよそ22万円です。

    ④ クリスマス献金にご協力お願いいたします。
    牧師へのクリスマス手当、キリスト教関連団体への寄付などに用います。
    受付テーブルの献金袋をご利用ください。

    ⑤ ミャンマー大地震救援募金終了のお知らせ
    全国のナザレン教会から979,746円の献金が集められ、
    ナザレン教会の国際援助機構を通じて送金されました。
    ミャンマーの復興と現地のナザレン教会のために引き続きお祈りください。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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