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朗読箇所

四旬節第2主日

旧約 創世記 2:4–7


4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、
5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。


新約 ヨハネによる福音書 9:1–12

◆生まれつきの盲人をいやす
1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
5 わたしは、世にいる間、世の光である。」
6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

説教

泥を塗りつけてください

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    私たちは毎週の礼拝を通して、
    少しずつヨハネによる福音書を読み進めています。
    この福音書を読み進めていくと、徐々に、
    この福音書の特徴がいくつかわかってきます。
    ヨハネは、闇と光のイメージを象徴的に用いて、
    イエス・キリストがこの世界の光として、
    私たちのもとに来てくださったことを
    何度も表現しています。
    また、エルサレムの宗教指導者たちと
    イエスさまとの間で行われた、
    長い論争が記録されているのも
    ひとつ特徴的なことでしょう。
    そして、もう一つ大きな特徴を挙げるならば、
    イエスさまの自己紹介がこの福音書には
    何度も記録されています。
    「私が命のパンである。」(6:35)
    「私は世の光である。」(8:12)
    「私は良い羊飼いである。」(10:11)
    といったように、いろいろなイメージを用いて、
    イエスさまがどのような存在であるのかを
    ヨハネはイエスさまの言葉を
    紹介しながら、伝えています。


    イエスさまの自己紹介で何度も使われている
    ギリシア語のフレーズは、
    エゴー・エイミーと言います。
    「私です」という意味です。
    ヨハネによる福音書で、このフレーズは、
    基本的に、ひとつの例外を除いて、
    イエスさまの発言のみに使われています。
    イエスさまが何者であるのかを示すために、
    ヨハネはイエスさまの発言だけに、
    このフレーズを使っています。
    また、ヨハネによる福音書で、
    イエスさまが自己紹介をするとき以外でも、
    イエスさまはこのフレーズを使っています。
    嵐の中で浮かぶ舟の中で、
    イエスさまの弟子たちが恐怖を覚えるとき、
    イエスさまは彼らに近づいて、
    「エゴー・エイミー」、「私だ」と声をかけました。
    命の危険を感じるこの嵐の中、
    あなたは恐れることはないよ。
    このような自然の嵐の中でも、
    そして人生において嵐が吹き荒れる困難の中にあっても、
    私があなたと一緒にいるんだから、
    恐れることはないよ。
    そう言って、弟子たちを励まし、安心を与えたとき、
    イエスさまは「エゴー・エイミー」、「私だ」と言っています。
    それほどまでに、イエスさまが自分の存在を明らかにする、
    この「エゴー・エイミー」というフレーズは、
    「私だ」という意味のこの表現は、
    とても大切で、重要な意味を込めて、
    ヨハネが紹介している言葉だと言えます。


    だからこそ、今日一緒に読んだ物語に、
    私は不思議な感覚を抱きます。
    というのも、ヨハネによる福音書で、ここでのみ、
    「エゴー・エイミー」というフレーズを
    イエスさま以外の人が使っているからです。
    きょう一緒に読んだ物語の中で、
    「私です」と人びとの前で叫び、
    自分の存在を明らかにしているのは、
    イエスさまではありません。
    「私です」と人びとの前で叫んでいるのは、
    イエスさまによって、目に泥を塗りつけられ、
    目が見えるようにされた人です。
    ヨハネは、イエスさまだけのために、
    エゴー・エイミーを用いることだって出来たはずです。
    それなのに、なぜ目が見えるようになった人の
    この物語の中でのみ、「私です」という言葉を
    イエスさま以外の人が用いた様子を
    ヨハネは描いたのでしょうか。


    目が見えない人がこの当時、
    どのような境遇に置かれていたのかを知ることは、
    このことを考える上での大きな手がかりとなります。
    新約聖書の舞台であるユダヤ社会において、
    目が見えないということは、
    単に、身体的なハンディキャップがあって、
    生活に不自由さがある
    というものではありませんでした。
    目が見えない人がこの社会において、
    どのように見られていたのか、
    どのような社会的立場であったのかを
    周囲の人たちの発言から知ることができます。
    イエスさまの弟子たちは、
    目が見えないこの人を見かけたとき、
    イエスさまに尋ねました。
    「この人が生まれつき目が見えないのは、
    誰が罪を犯したからですか。
    本人ですか。それとも両親ですか。」(9:2)
    そう、目が見えない人本人か、その両親に
    大きな問題があったから、
    この人は目が見えない。
    神との間に大きな問題を抱えている人だから、
    この人は目が見えないんだ。
    弟子たちはそんな風に、偏見の目で、
    この人のことを見つめていました。
    目が見えない。
    その一点だけを取り出して、
    弟子たちはこの人のことを
    知ったつもりになっていました。


    弟子たち以外の人たちも、同じです。
    目が見えないこの人が、
    イエスさまによって泥を塗りつけられ、
    目が見えるようにされた後、
    近所の人たちは、
    この人が誰なのかわからなくなります。
    座って物乞いをしていた人、というのが、
    この人についての周囲の人たちの認識です。
    この当時のユダヤ社会において、
    目が見えない人は、自分の力で
    生活の糧を得ることはできませんでした。
    ですから、人通りの多い場所で、
    彼らは食べ物やお金を求めて、
    通りがかりの人びとに助けを求めていました。
    いつも、あの場所で、物乞いをしている、
    目が見えないあの人。
    それが、この物語に登場する、
    目が見えるようになった人について、
    近所の人たちが抱いていた認識でした。
    ですから、目が見えるようになって、
    物乞いをする必要がなくなったこの人を見たとき、
    誰も確信を持って、この人が物乞いをしていたあの人と
    同一人物だ、と結論づけることができませんでした。
    人びとの間で意見は一致しません。
    目が見えるようになった人が
    誰であるのかについて混乱が起こります。
    そう、弟子たちだけでなく、
    周囲の人たちもまた、
    「目が見えない」「物乞いをしている」ということだけで、
    この人のことを認識していました。
    誰も、この人と関わりを持ち、
    語り合ったことに基づいて、
    この人が誰であるのかを
    知ることはありませんでした。
    いや、知りたいと思ってさえもいなかったのでしょう。
    というのも、ユダヤの社会において、
    目の見えない人たちは、
    宗教的には神の前に汚れた存在として
    認識されていました。
    それは、目が見えない人たちは、
    日常生活の中で気づかないうちに、
    汚れているものに触れてしまっている
    可能性があったからです。
    神の前で汚れている状態になることを
    できる限り避けようとする、
    ユダヤ社会のその文化において、
    目が見えない人はある種、暗黙の了解として、
    汚れた存在として扱われていました。


    現代社会において、
    目が見えないことによって起こる
    様々な不自由さや生きにくさを
    できる限り減らそう
    という取り組みは続けられています。
    点字パネルを道に敷いたり、
    横断歩道が青になって、
    道路を横断できる時間帯には
    音が鳴るような仕組みにしたり、
    訓練された盲導犬の助けを
    得ることができたりします。
    目が見えにくい人は、
    メガネやコンタクトレンズを使うことができます。
    目に病気が発症したならば、
    手術を受けることだってできます。
    けれども、当時のユダヤ社会は、
    私たちが生きる現代社会とは違います。
    目が見えないことは、
    それ以上の意味を持ってしまいました。
    目が見えないから、あいつは罪人なんだ。
    目が見えないから、汚れた人間なんだ。
    目が見えないから、物乞いをするしかないんだ。
    目が見えない。
    そのことによって、この人が何者であるのかが
    周囲の人びとの間で決定づけられてしまいました。
    誰も彼がどのような人物なのかを
    知ろうとはしません。
    目が見えないから、あなたはこういう人なんだ。
    そんな偏見の目で、人びとはこの人を見つめ続けました。


    だから、イエスさまによって
    目が開かれたこの出来事はこの人にとって、
    単に目が見えるようになったこと
    以上の意味を持ちました。
    これまでこの人が誰であるのかを
    周囲の人たちが識別するために用いていた、
    唯一の情報がなくなってしまったからです。
    イエスさまによって目を開かれたこの人は、
    もう、罪人とは呼ばれません。
    汚れた人間とはみなされません。
    物乞いをする必要だってありませんし、
    物乞いをしていたことによって被っていた、
    社会的な恥は取り去られました。
    新しく生きる道がイエスさまによって開かれました。


    近所の人たちが混乱する中、
    目が見えるようになった人の声が響きます。
    「エゴー・エイミー」「私です」。
    あなたたちが見ていなかった、
    見ようとしていなかった私はここに居ます。
    私を見てください。
    あなたたちが偏見の目で見続けて、
    きちんと向き合ってくれなかった
    私がここに居ます。
    混乱していてわからないかもしれませんが、
    あなたたちが話しているその人こそ、
    この私です。
    そんな叫び声として、
    エゴー・エイミーという言葉が
    響いているかのようです。


    私たちはほんの僅かな情報から、
    周囲の人たちのことを知ろうとします。
    そして、勝手に判断します。
    偏見の目で見つめ、
    勝手に相手がこういう人だと想像し、決めつけます。
    私たちがそうしているのと同じように、
    他の人たちも、私たちのことを
    偏見の目で見つめ、
    あなたはこういう人だよね、と勝手に判断します。
    この社会で生きる限り、私たちはどうしても
    評価されることから逃れることができません。
    学校でも、会社でも、
    その他のあらゆる人間関係の中でも、
    様々な指標を元に、私たちは評価され、判断されます。
    あるひとつの側面から、あなたはこういう人だよね。
    できの良い人間だね。
    まぁまぁだね。
    そんな風に、私たちが持ち合わせている
    色々なものを材料に、私たちは判断されます。
    そして、私たちは簡単に勘違いしてしまいます。
    これが、自分という人間なのだ。
    この社会が、学校が、家族が、周囲の人たちが
    規定し、評価し、判断する私という人間のあり方が、
    自分という人間なのだ。
    周りが抱く偏見も、
    もしかしたら真実なのかもしれない。
    そんな風に、勘違いしてしまいやすいものです。


    けれども、きょうの物語は、
    そんな私たちに違う生き方があることを
    示しているかのようです。
    目が見えない人の目に泥を塗りつけ、
    この人の目を開かせることを通して、
    イエスさまは人びとがこの人に抱く偏見や
    この人に押し付けてくるイメージから
    この人を解放しているからです。
    周囲の人びとやユダヤの文化が
    この人に押し付けてきた、
    罪人や汚れた人、
    物乞いといったその状態は
    イエスさまとの出会いを通して、
    この人から取り去られます。
    そして、目が見えるようになったこの人は
    「私です」と言って、
    ありのままの自分自身の姿を
    人びとの前でさらしだしました。
    そう、同じように、周囲の人びとが作り出し、
    時には押し付けてくる私という人間のイメージを
    イエスさまは打ちこわし、混乱をもたらす方です。


    このとき、イエスさまが取ったその方法は、
    目が見えない人の目に泥を塗りつけることでした。
    きょうは旧約聖書から
    創世記2章の物語を読みましたが、
    イエスさまのこの行動は、
    創世記2章に記されている人間の創造を
    思い起こさせる形で描かれています。
    創世記によれば、
    人間は、土の塵から形作られ、
    神に命の息を吹きかけられて
    生きる者とされました。
    イエスさまは泥を塗りつけることを通して、
    この出来事を思い起こさせようとしています。
    あなたが何者であるのか。
    それを決定づけるのは、
    他人からの評価でも、
    この社会や家族の声でも、
    あなた自身がこれまで積み上げてきた功績でもない。
    神があなたを造り、あなたに命を与えた。
    そして、神があなたを神の子どもとされた。
    これが、私たち一人ひとりを
    決定づけるものです。
    私たちが自分自身を苦しめる、
    様々な偏見や思い込みに縛られて生きるのではなく、
    神に愛されている子どもとして生きることを
    神は私たちに対して願っています。
    だからこそ、イエスさまはあのとき、
    目に見えない人の目に泥を塗りつけ、
    新しく生きる道を備えました。
    どうかきょうも、そしてこれからも、
    私たち自身が生きる限り
    この身に引き受けてしまう、
    あらゆる偏見やあらゆる思い込み、
    私たち自身から自分らしさを奪っていく様々な出来事に、
    イエスさまが泥を塗りつけてくださいますように。
    何度も、何度でも、私たち自身が何者であるのかを
    イエスさまが思い起こさせてくださいますように。
    周囲で響く偏見や思い込みに溢れた声は、
    私たちの存在そのものを言い表すことはできません。
    寧ろ、神の声に耳を傾けてください。
    私たちは神に命の息を吹きかけられて生きる、
    神の子どもです。
    この事実は誰にも否定できません。

週報より

  • 2025.03.16 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは、東京基督教大学(TCU)の学生のみなさんが来会してくださいました。
    昨年の夏、私たちの教会に10日間滞在して、教会の働きを手伝ってくださった
    TCUの「夏季伝道チーム」の学生の方々が来会してくださいました。
    きょうはランチの会を開催し、学生の皆さんと交わりの時間を持つ予定です。
    メニューはカレーです。費用は無料です(ランチ献金あり)。

    ② 23日(日)の礼拝後に、月報『モレノ』編集会をおこないます。
    モレノ・チームのみなさま、よろしくお願いいたします。
    月報『モレノ』への原稿・表紙絵・挿絵・写真などのご寄稿は大歓迎です。
    教会へのメールやLINE、手渡しなどでご寄稿いただけます。
    どなたでも、いつでも、ご寄稿ください。

    ③ 3月20日(木・祝)に小山市内の教会の子ども交流会が開催されます。
    10時から11時半に、小山総合公園で行います。参加費は無料です。
    雨天の場合は、小山聖泉教会(小山ハーヴェストチャーチ)での開催となります。
    人数把握のため、参加予定の方は本日中に基嗣牧師までお知らせください。

    ④ この春に、進学や進級などで環境が変わる方々のことを覚えて祈ります。
    卒業・卒園、進学・進級、転職、就職などによって、
    この春から環境が新しく変わる方々の上に、神の守りと祝福を祈っています。


    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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