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朗読箇所

四旬節第4主日

イザヤ書 43:16–21


16 主はこう言われる。海の中に道を通し
恐るべき水の中に通路を開かれた方
17 戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し
彼らを倒して再び立つことを許さず
灯心のように消え去らせた方。
18 初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。
19 見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
20 野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ
わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。
21 わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。


ヨハネによる福音書 12:1–8

◆ベタニアで香油を注がれる
1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

説教

香油の香りで満たしてください

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    先ほど読んだ
    ヨハネによる福音書の物語の中で、
    一体何が起こったのでしょうか。
    食事中に、マリアが立ち上がります。
    高価な香油の入った壺から、
    とても良い香りが漂ってきます。
    マリアはイエスさまに近づき、
    その香油をイエスさまの足に注ぎます。
    その香りは、家中に広がりました。
    そして、イエスさまの足に
    注がれたその香油を
    彼女は自分の髪で拭いました。
    これは、現代に生きる私たちにとって、
    何とも理解し難い光景です。
    なぜマリアがこのような行動をしたのか、
    さっぱりわかりません。
    きっと現代に生きる多くの人は、
    首を傾げながら読む
    物語ではないでしょうか。


    確かに、文化や時代が異なるため、
    聖書を読む時に、
    私たちの感覚では
    理解しがたい物語があるのは
    仕方がないことです。
    では、1世紀のユダヤ社会で
    生きた人たちにとっては、
    どうだったのでしょうか。
    この物語で描かれていることは、
    彼らにとって特段
    驚くことではなく、
    慣れ親しんだ光景
    だったのでしょうか。


    もちろん、そんなことはありません。
    彼女の行動は、
    当時の人々にとっても異様で、
    いくつもの点で驚くべきものでした。
    物語が描く舞台は、食事の席です。
    食事の席にお客さんが
    招かれている場合、
    食事の前にそのお客さんに
    油を注ぐことはありました。
    でも、基本的に、
    頭に少量の油を注ぐのみです。
    これは、お客さんに
    心からの歓迎を示すしるしでした。
    けれど、マリアは食事中に
    イエスさまに香油を注ぎ始めます。
    それもおよそ300gもの
    大量の香油を、
    頭ではなく、足にです。
    スーパーで売っているような、
    小さいサイズの油のボトルが
    だいたい200gから300g程度です。
    それを一本丸ごと
    イエスさまの足に注いで
    使い切るイメージです。
    過剰な量ですね。
    この時代、食事前に
    本人か奴隷が
    足を洗うことはありました。
    おそらく、この場でも
    既に足を洗い終えて、
    食事が始まった後
    だったことでしょう。
    けれども、その上で、
    油を塗るということまでは、
    一般的なことではありませんでした。


    マリアがこの時に使った油もまた、
    その場にいた人々を
    驚かせるものでした。
    彼女が用いた油は、
    ナルドの香油と呼ばれています。
    それは、インド北部の
    ヒマラヤに自生する、
    スパイクナルドという植物から
    抽出されるものです。
    ということは、
    彼女が使ったこの香油は
    輸入品ですね。
    それは、明らかに高級品です。
    この様子を見ていた
    イエスさまの弟子の発言から、
    およそ1年分の賃金に
    相当するもので
    あったことがわかります。
    ですから、この香油は
    彼女にとって、
    もしもの時のために、
    売り払えるような重要な資産
    だったのではないでしょうか。
    彼女はそんな貴重な香油を
    イエスさまの足に注ぎ出しました。
    そしてその際、
    彼女は髪をおろして、
    その髪でイエスさまの足についた
    香油を拭い始めます。
    彼女の行動はまるで、
    奴隷のような行動でした。
    ですから、彼女の行動は
    とても不可解です。
    とても高級な香油を
    イエスさまに注ぐという
    高貴さを示しながら、
    一方で、自らを低く貶め、
    奴隷のような行動を
    しているのですから。
    なぜマリアはこのような行動を
    起こしたのでしょうか。


    やはり関係があるのは、
    この出来事の前に
    起こったことです。
    きょう読んだ物語の
    一つ前の章で、
    マリアは泣いています。
    彼女の兄弟であるラザロが
    病気で亡くなったからです。
    でも、この食事の席に、
    ラザロはいます。
    そう、イエスさまが
    死者の中からラザロを
    よみがえらせてくださったからです。
    きっとマリアは、
    イエスさまへの感謝を
    どうにかして伝えたかったのでしょう。
    それはもしかしたら、
    単に自分の兄弟を
    生き返らせてくれたから、
    というだけの理由では
    ないかもしれません。
    ラザロとマリアとマルタ。
    この三人の兄弟は、ベタニアの村出身、
    とだけ紹介されています。
    ユダヤの文化において、通常は、
    父親の名前や夫の名前が
    一緒に紹介されます。
    でも、彼女たちが紹介される際、
    父親の名前も、夫の名前も
    そこには記されていません。
    ということは、ラザロがこの家の
    家長だったのかもしれません。
    そうであったならば、
    ラザロの死は、彼女たちの将来に
    大きな不安を与えるもの
    だったと思います。
    圧倒的に男性優位の社会であった
    古代世界において、
    自分たちだけで生きていく術を
    探さなければならなかったのですから。
    古代のユダヤ社会の中で、
    この家族は、ラザロを失ったとき、
    脆く崩れ去ろうと
    していたかもしれません。
    けれども、イエスさまが
    ラザロをよみがえらせてくださった。
    それは、大切な自分の兄弟が
    命を取り戻したと共に、
    自分たちのこれからを
    保証するものにもなりました。
    だから、彼女はイエスさまに
    言葉では伝えきれない
    この感謝の思いを何とかして
    伝えたかったのでしょう。
    それは、手元にあるこの高級な香油を
    すべてイエスさまの足に
    注ぐほどに溢れてきた思いでした。


    それは、その場にいる人たちにとって、
    無駄なことのように見えたと思います。
    実際、イエスさまの弟子のひとりである、
    イスカリオテのユダは言いました。
    「なぜ、この香油を
    300デナリオンで売って、
    貧しい人々に
    施さなかったのか。」(5節)
    なるほど。
    それは正論です。
    けど、ユダの発言は
    確かに正しかったのですが、
    貧しい人たちに対する思いは
    込められていませんでした。
    ただ、マリアの行動を批判し、
    その行動を嘲笑うだけの
    言葉になっていました。
    そんな正論を耳にし、
    傷つき、貶められたマリアの行動を
    イエスさまはどのように
    受け止めたでしょうか。


    イエスさまは言います。
    「この人のするままに
    させておきなさい。
    私の埋葬の日のために、
    それを取っておいたのだ。」(7節)
    イエスさまはマリアの行動を
    イエスさま自身の死に対して
    マリアが備えてくれたものと
    受け止めました。
    イエスさまのこの言葉を聞く時、
    イエスさまの足に注がれた
    あの香油の意味が変わってきます。
    通常、葬りの準備のために、
    油が注がれるとき、
    基本的にそこに居合わせるのは、
    家族や親戚だけです。
    ですから、イエスさまの言葉は、
    マリアがイエスさまへの
    感謝を表して注いだ
    この香油の意味を
    変化させました。
    この香油は、
    これから十字架刑へと続く、
    イエスさまの苦しみとその死、
    葬りの準備のためのものになりました。
    葬りの備えの場に
    一緒にいることが許されるのは、
    家族や親族のみです。
    そう、イエスさまは、
    血縁や社会的な立場を越えて、
    その場に集まっていた人たちを
    家族として受け止める
    宣言をされたのです。


    思い出してみると、この食事の席は、
    過越祭というユダヤのお祭りの
    6日前に行われたものでした。
    その日は、過越祭の日に
    いけにえとする
    小羊を選ぶ日でした。
    過越祭の食事は、
    基本的に家族で
    お祝いするものでしたので、
    その準備である小羊を選ぶ日にも、
    家族や親族は集まりました。
    ですから、この日の食事は、
    家族や親族が集まる席でした。
    そこに、ラザロを復活させた
    イエスさまとその弟子たちが
    お客さんとして
    招かれていたのでしょう。
    イエスさまと弟子たちがいるため、
    その食事の席は、明らかに
    家族だけのもの
    ではありませんでした。
    でも、イエスさまは
    家族の定義を変えます。
    マリアがイエスさまに
    香油を注ぎかけたその行動を、
    家族や親族だけが
    居合わせることが許された
    葬りの準備として
    イエスさまは受け止めました。
    そうすることによって、
    その場に居合わせたすべての人を
    イエスさまは家族として
    受け止める宣言をされたのです。
    マリアも、マルタも、
    ラザロも、弟子たちも、
    そして、批判的な発言をしていた
    あのイスカリオテのユダさえも。
    社会的立場や、ものの考え方や
    出自や血縁関係は、
    そこでは重要ではありません。
    ただ、イエスさまがそこにいて、
    イエスさまにあって
    結び合わされる。
    そんな人々の結びつきを
    イエスさまは示されたのです。


    主イエスにあって、
    家族とされている。
    それは何よりも、
    私たち、教会の姿です。
    私たちは血縁によって
    結ばれてはいません。
    同じような考えの人だけが
    いるわけでもありません。
    生まれや育ちもバラバラです。
    日曜日以外、何をしているのかも、
    みんな違います。
    年齢も様々です。
    家族と呼ぶには、多様すぎるように
    感じるかもしれません。
    でも、主イエスにあって、結ばれて、
    私たちは共に生きることができる。
    家族のように、
    時には家族以上に、
    助け合って生きることができる。
    マリアがそうであったように、
    時には、目に見えて
    無駄なことをすることだってあります。
    共に生きる仲間たちを
    大切にすることは、
    損得勘定で計れるようなもの
    ばかりではないからです。
    主イエスにあって
    結ばれ、共に生きる。
    そんな家族とされている
    大切な人たちに対して、
    私たちはその無駄に見えることを
    お互いに受け止めることができます。
    愛情や憐れみや
    助け合いたいって気持ちが
    無駄だなって思う気持ちよりも
    遥かに上回るからです。
    そんな気持ちが自然と生まれ、
    育まれ、養われてくるからです。
    その意味で、教会って、
    マリアが注いだ
    あのナルドの香油の香りで
    いっぱいになるような場所です。


    もちろん、私たちは何よりも、
    イエスさまから損得勘定抜きの
    愛情や恵みを受けています。
    罪を赦され、救いの希望を与えられ、
    復活の命に生きる望みを
    与えられています。
    天の国を目指して歩む、
    教会に集う仲間たちを、
    主イエスにあって結ばれた
    大切な家族として与えられています。
    ですから、マリアが注いだような
    高価な香油をイエスさまから
    既に注がれているのは、
    何よりも、私たちの側です。
    ですから、私たちは主イエスにあって、
    愛や憐れみを共に生きる人たちに、
    ナルドの香油のように
    注ぐことができるはずです。
    既に、イエスさまから
    香油を注がれるようなことを
    経験しているのですから。
    それは、教会の中であるのか、
    外であるのかなど関係なくです。
    イエスさまが愛に満ちた
    ナルドの香油の香りを
    みなさんを通して、
    みなさんの日常に
    満たしてくださるはずです。
    それって、とても素敵なことだと
    思いませんか。
    主イエスにある愛や憐れみ、
    慰めや助け、平和への思いが
    香り高い香油のように、
    私たちの日常やこの世界を
    包み込んでくれるのですから。

週報より

  • 2026.03.15 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは午後3時より、目黒教会で神学校の卒業式が予定されています。
    卒業生の吉武良司さんは4月から牧師として京都の嵯峨教会に着任されます。
    4月からのお働きのために覚えてお祈りください。
    卒業式には、稲葉奈々神学生と稲葉基嗣牧師が出席予定です。

    ② 今月より、双方向での礼拝のオンライン出席が可能となりました。
    設定方法も含めて、利用方法を知りたい方は基嗣牧師までお知らせください。
    礼拝時間の前後は、オンラインで礼拝出席される方たちと
    ゆっくりお話ができるようにもしておきます。

    ③ 今年の復活祭(イースター)は4月5日(日)です。
    復活祭の日は、礼拝後に祝会(持ち寄りの食事会)と
    エッグハントを予定しています。
    また、祝会の後は有志の方で墓参に出かけます。

    ④ 子どものみなさんへのお知らせ
    はるやすみのあいだ、きょうかいで あそんで すごせるひを よういしました。
    3/31, 4/1, 2で、じかんは9:30から ごご1:00までです。
    れいはいどうにボードゲームやおりがみなどを よういしておくので、
    あそびにきてくださいね。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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