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朗読箇所

復活節7主日

旧約 創世記 2:15–25


15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
23 人は言った。「ついに、これこそ
わたしの骨の骨
わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。


ヨハネによる福音書 14:15–21

◆聖霊を与える約束
15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

説教

霊の絆で結ばれて

音声は準備中です

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    創世記はそのはじまりから、
    私たちやこの世界に向かって、
    「良い」と何度も繰り返し、
    語りかけてきました。
    神が造られたこの世界はとても良い。
    そこで生きるすべての命あるものも、
    そして、私たち人間も、
    とても尊くて、良い存在なんだと、
    神は創世記の冒頭部分を通して
    私たちに語りかけてきます。
    だからこそ、さきほど読んだ
    創世記2章の物語で紹介されている、
    神の言葉はとても印象的な
    響きを持っています。
    「人が独りでいるのは良くない。」(18節)
    そう、これまで何度も
    ご自分が造られたこの世界や
    そこで生きるすべての命あるものに対して、
    「良い」と語りかけてきた神が、
    はじめて、「良くない」と伝えました。
    人間が孤独のままでいること。
    それが、良くないことだと、
    神は実感し、この良くない状態を
    改善しようと働きかけます。


    創世記2章のこの物語は、
    結婚についての起源を伝えるものとして、
    しばしば用いられてきました。
    けれども、そういったことが
    この物語の支配的なテーマではありません。
    人間の孤独を見つめて、神が語った言葉は、
    「ふさわしい助け手を造ろう」(18節)です。
    神は決して、妻や夫となる人物を造ろう、
    などとは言いませんでした。
    何よりも、婚姻関係を
    作ることだけが目的ならば、
    神が様々な動物たちを人間の前に、
    人間にとって良いパートナーとなる
    可能性のある存在として、
    連れて来る必要などなかったでしょう。
    ですから、生涯を共に生きることを願うような、
    共に家族を築くことを願うような、
    そんなパートナーだけのことを考えて、
    神が「ふさわしい助け手を造ろう」
    と語ったとは思えません。
    むしろ、この物語に登場する
    一人の人間を通して、
    人類全体を象徴させることによって、
    人間は誰一人として、
    たった一人で生きることができない。
    孤独や孤立は人間にとって
    決して良い状態ではないと、
    伝えようとしています。


    だから、すべての人間には、
    共に生きる人たちが必要なんだ。
    それがこの物語が
    確信として抱いていることです。
    ところで、そのことを伝える、
    「ふさわしい助け手」というフレーズは、
    一体どんな存在を指しているのでしょうか?
    この日本語からは、自分にぴったりの、
    ある意味では、自分にとって
    都合の良い存在のようにも
    受け取れてしまいます。
    もちろん、この物語は
    「ふさわしい助け手」を
    そのような、自分にとって都合の良い存在
    としては考えていません。
    助けてくれる人が偉いとも、
    助けてもらう人が偉いとも考えません。
    その両者の間に、上下関係のようなものを
    この物語は作ろうとは考えていません。


    じつは、ここで「ふさわしい」と
    日本語に訳されているヘブライ語は、
    一言で表現するにはとても難しい言葉です。
    「目の前に立って、
    向き合い、応答する」存在を
    一人ひとりの人間にとっての
    助け手だと、神は伝えています。
    そう、対等な関係でそばに立ち、
    心から向き合い、
    私という一人の人間に応答してくれる。
    それが私たちにとっての助け手であり、
    私たちと共に生きる
    一人ひとりの存在です。
    そこには、決して上下関係はありません。
    そのような対等に向き合い、語り合う関係を
    私たちは共に生きる人たちと
    築いていくことができる。
    それが自然な人間存在のあり方なんだよと、
    この物語は私たちに語りかけています。


    人間同士が対等な関係を築きながら、
    助け合い、手を取り合って生きることは、
    創世記2章の後半に記されている、
    女性の創造について語る物語を通して、
    更に強調されています。
    伝統的に、あばら骨から取られて、
    女性が造られたと訳されてきました。
    ただ、「あばら骨」と訳されている単語は、
    実は、旧約聖書の他の箇所では、
    「側面」と訳されています。
    それは、建物や箱のあちら側と
    こちら側というように、
    ふたつの側面のうちの片側
    といった意味合いで用いられます。
    つまり、創世記2章の記述からは、
    神が人の片側を取った、としか、
    読み取ることができません。
    人の片側というと、
    かなりの部分を削り取って、
    それこそ、最大では人体の半分を切り取って、
    女性を造ったという、
    とても強烈な光景を
    想像することだってできます
    そういった事情もあって、
    身体の両サイドにある部位である、
    「あばら骨」の片側のことを
    指していると予測され、
    伝統的にあばら骨と訳されてきたのでしょう。
    この時、神は深い眠りを用いました。
    外科手術を行うために、
    神が眠りを用いた
    と捉えることも出来るでしょう。
    また、人間の片側を取り、それを用いて、
    人間の助け手を神が造ったことを
    その深い眠りの中で幻として見せた
    とも取れるでしょう。
    いずれにせよ、「あばら骨」よりも
    多くの部分を想像させる言葉が
    ここで用いられているため、
    共に生きる人たちが、
    人間にとってどのような存在であるかを
    この物語は伝えようとしています。
    私たち一人ひとりにとって、
    共に生きる人たちは、私たちの片側です。
    創世記の物語において、
    一見、男性にとっての助け手として、
    女性が示されているようにも
    見えてしまいますが、
    どちらか一方のみが、
    どちらかの助け手であるわけではありません。
    お互いが、お互いにとっての助け手です。
    そして、何よりも、
    性別の違いによって示されるのは、
    現代に生きる私たちにとっては、
    自分とは異なる他者でしょう。
    共に生き、一緒に手を取り合う、
    私と異なる誰かがいなければ、
    私という存在は片側を失い、
    欠けているところばかりなのです。
    たった一人で人間という存在を
    完結できるわけも、
    たった一人で完全な人間で
    あるわけもありません。
    私たちは、自分とは異なる誰かと、
    自分にとっての片側である他者と、
    共に生きることによって、
    神によって「良い」と呼ばれるのです。


    果たして、私たちの生きるこの世界は、
    お互いを自分にとって良い存在であると、
    実感できるような関係が
    広がっているのでしょうか。
    心から目の前にいる人と向き合って、
    応答し合い、助け合える。
    そんな関係は私たちにとって、
    当たり前のものなのでしょうか。
    それとも、全く現実的ではない、
    程遠い理想のようなものなのでしょうか。
    対等な関係よりも、上下関係が当たり前に
    横たわっているのでしょうか。
    人間関係は煩わしく、お互いのことを
    良い存在とは実感できないから、
    もう諦めて、孤独であることを選ぶことの方が
    賢い選択なのでしょうか。
    「人が独りでいるのは良くない。」(18節)
    あの日、神が語りかけた言葉は、
    今、この世界で、私たちの生きる社会で、
    どのように響いているのでしょうか。


    きょう、私たちは新約聖書から
    ヨハネによる福音書を読みました。
    そこで、イエスさまは、
    「私は、あなたがたを
    みなしごにはしておかない」(ヨハネ14:18)と、
    約束されました。
    そう、誰も保護し、
    助けてくれる人がいない
    子どものような状態に
    私たちのことを放置するようなことは
    決してしないと、
    イエスさまは約束されました。
    イエスさまはこの時、
    ご自分が私たちのもとに
    戻って来るからと言って、
    このような約束をされましたが、
    その直前には、聖霊を
    私たちに与えることも約束しています。
    私たちを慰め、励まし、
    助けを与えるために、
    聖霊を私たちに与え、
    この聖霊によって、
    私たちと共にいてくださると、
    イエスさまは約束してくださいました。
    イエスさまこそ、私たちといつも向き合い、
    私たちにいつも応え、
    私たちの最大の助け手で
    いてくださる方です。
    そんなイエスさまと
    私たちはこの聖霊にあって、
    いつも結ばれています。


    そして、聖霊が私たちに与えられているのは、
    私たちがお互いに結び合わされるためです。
    聖霊の助けを受けながら、
    私たちはお互いの違いを乗り越え、
    お互いにとって対等な助け手として、
    寄り添い合って、歩んで行くことができます。
    聖霊なる神が、
    私たちを結びつけてくださっているからです。
    それは単なる理想論ではありません。
    聖霊を通してのお互いの結びつきは、
    神の愛と憐れみに満ちた、
    私たちへの贈り物であり、
    私たちへの約束です。
    だからこそ、聖霊が私たちの絆となって、
    私たちが関わる様々な共同体や
    私たち一人ひとりが持つ
    様々な人間関係の傷を癒やし、
    そこに集う一人ひとりを
    結びつけてくださることは、
    私たちの心からの希望です。


    きょうの創世記の物語が伝えるように、
    私たち人間は、孤独や孤立を選ぶようには、
    決して造られてはいません。
    人が独りでいるのは良くないのです。
    だから、孤独や孤立ではなく、
    お互いに対等に向き合いながら、
    お互いに助け合える。
    そんな関係を築いていくことを
    私たちはいつも目指しています。
    もちろん、実際のところは、
    うまくいかないことばかりかもしれません。
    私たちは諦めてしまうかもしれません。
    でも、私たちにとって、
    大きな喜びであり、
    希望の光であるのは、
    神が決して私たちのことを
    諦めていないことです。
    神が決して諦めなかったから、
    私たちと共に生きる誰かの間に立ち、
    私たちを結び合わせるために、
    私たちのもとに聖霊を送ってくださいました。
    神ご自身が、私たちの営む社会や、
    共に生きる人たちとの関係を見つめて、
    「良い」と宣言することを
    いつまでも諦めていないから、
    聖霊なる神は、今日も、
    私たちのもとに訪れ、
    私たちと共にいてくださっているのです。
    私たちがお互いにとって、
    対等で、心から向き合い、応答し合える、
    そんなふさわしい助け手となるために。
    神は、今日も、
    私たちの集うこの教会で、
    そして私たちが訪れるあらゆる場所で、
    聖霊によってその命の息を
    私たちに向かって吹きかけてくださっています。
    そんな聖霊の息吹を感じ取りながら、
    霊の絆で結ばれている
    喜びを抱きながら、
    そして、私たちが人間関係の間に抱える
    裂け目や傷を癒やす、
    聖霊の働きに希望を抱きながら、
    共に生きる人たちと日々、
    みなさんが出会うことができますように。

週報より

  • 2025.06.08 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは聖霊降臨祭(ペンテコステ)です。
    イエス・キリストが天に昇られた後、主イエスによって約束された通り、
    聖霊が弟子たちに与えられました。
    聖霊は私たちとキリストをつなぎ、私たち一人ひとりを結ぶきずなです。
    きょうは、助け主であり、慰め主である聖霊が
    私たちたちに与えられていることを喜び祝う日です。

    ② きょうは礼拝後、ティータイムのあとに月例教会役員会を行います。

    ③ 7月の第一日曜日(7月6日)に、自宅〜教会間の送迎を試験的に行います。
    将来的に、教会〜自宅間の送迎を定期的に行えるようにと願っています。
    どのような形で実現可能なのかを探るため、7月の最初の日曜日に、
    送迎を希望される方々の自宅〜教会間の送迎を行ってみたいと思います。
    ご利用を希望される方は、牧師までお気軽にお声がけください。

    ④ 外壁塗装のための献金へのご協力のお願い
    私たちの教会はおよそ10年ごとに礼拝堂の外壁塗装を行っています。
    礼拝堂を長く使用するために、必要な定期的なメンテナンスです。
    ご協力いただける方は、受付テーブルの上にある献金袋をご使用ください。
    目標金額は140万円です。

    ⑤ 6月は「謝恩月間」です。
    ナザレン教会は、引退した牧師とお連れ合いの生活を支えるため、
    「謝恩金」を支給しています。謝恩金献金はそのために用いられます。
    ご協力いただける方は、受付テーブルの袋をご利用ください。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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