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朗読箇所

四旬節第5主日

旧約 サムエル記 上 18:5−11


5 ダビデは、サウルが派遣するたびに出陣して勝利を収めた。サウルは彼を戦士の長に任命した。このことは、すべての兵士にも、サウルの家臣にも喜ばれた。
6 皆が戻り、あのペリシテ人を討ったダビデも帰って来ると、イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三絃琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた。
7 女たちは楽を奏し、歌い交わした。「サウルは千を討ち
ダビデは万を討った。」
8 サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。「ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。」
9 この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。
10 次の日、神からの悪霊が激しくサウルに降り、家の中で彼をものに取りつかれた状態に陥れた。ダビデは傍らでいつものように竪琴を奏でていた。サウルは、槍を手にしていたが、
11 ダビデを壁に突き刺そうとして、その槍を振りかざした。ダビデは二度とも、身をかわした。


新約 ヨハネによる福音書 3:22–36

◆イエスと洗礼者ヨハネ
22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。
26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

◆天から来られる方
31 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。
32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。
33 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。
34 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。
35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。
36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」

説教

脇役に徹した洗礼者ヨハネ

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    きょうのヨハネ福音書の箇所を読んで、
    「また洗礼者ヨハネの話か」と
    感じたのはわたしだけでしょうか。
    この福音書をはじめから読んでいくと、
    イエスさまと洗礼者ヨハネの話が交互に出てきます。
    この世界の光であるイエスさまについて紹介された直後に、
    神から遣わされた重要な人物として、
    洗礼者ヨハネが登場します。
    けれど、著者はすぐさま、
    「ヨハネは光ではありません。
    彼は、わたしたちの光である
    キリストを指し示す存在なんです」と、読者に伝えます。
    洗礼者ヨハネに対する著者の見解が伝えられた後、
    実際にヨハネが自分やイエスさまについて、
    どんな発言をしたのかが明らかにされます。
    「見よ、神の子羊だ」
    「この方こそ神の子だ」と言って、
    ヨハネは自分のもとに集まってきた人たちに、
    イエスさまを紹介しました。
    この人こそ、自分よりも優れた人ですと、
    ヨハネは何度も自分の弟子たちに伝えました。
    そんなヨハネの言葉を聞いた人たちの中には、
    イエスさまの弟子になる人たちもいました。
    それは、ヨハネの願い通りです。
    自分のもとに集まってくるみんなに
    イエスさまを紹介できましたし、
    自分の弟子たちをイエスさまに
    引き渡すことだってできたのですから、
    物語の流れ的には、ヨハネからイエスさまへの移行が
    スムーズに行われたように見えます。
    さぁ、これからイエスさまについての物語に集中できる。
    そう考えながら、わたしはヨハネ福音書を読み進めてきました。

    かと思えば、また洗礼者ヨハネの登場です。
    自分のもとに集まってきた人びとに
    洗礼を授けるという、彼の活動内容は変わっていません。
    ヨハネが語る言葉の意図も変わっていません。
    ヨハネは変わることなく、自分ではなく、
    イエスさまを見つめてほしいと、
    人びとに伝えています。
    これまでとあまり変わらない内容を伝えているのに、
    著者はなぜ、洗礼者ヨハネの話を
    またここで紹介したのでしょうか。

    その理由については、ヨハネの弟子たちの言葉から
    推測することができます。
    ヨハネの弟子たちは、ヨハネに訴えるように言います。
    「先生、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、
    あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。
    みんながあの人の方へ行っています。」(26節)
    別にそれで良いじゃないか。
    ここまでこの福音書を読んできた現代の読者なら、
    そう思うかもしれません。
    けれど、洗礼者ヨハネを重要視していた人たちにとっては、
    話は違ってくるでしょう。
    実際、ヨハネという人は一体誰なのか、
    どんな人物なのかを確かめるために
    エルサレムの宗教指導者たちが使者を送るほど、
    ヨハネは注目を集めていた人物でした。
    そんな彼に慕ってついてきた弟子たちが、
    イエスさまの登場を面白く思わないのは、
    有り得そうなことです。
    たしかに、ヨハネ自身がイエスさまを指し示し、
    イエスさまのもとへ人びとが行くのを良しとしました。
    自分たちが慕い、重要視してきた洗礼者ヨハネではなく、
    イエスという男のもとに人びとが流れていく。
    それが実際に起こると、いろんな感情が湧き出てきました。
    自分たちのもとから他の人たちが去っていくことへの危機感。
    そして、洗礼者ヨハネが重要視されないことへの悲しみ。
    そういった感情が溢れ出て、
    弟子たちがヨハネに訴えた姿が想像できます。

    このような人びとの反応があったからこそ、
    著者は、洗礼者ヨハネについて、
    何度も記す必要がありました。
    実際に、イエスさまが現れて、
    イエスさまのもとに人びと集まるようになったとき、
    それでも、ヨハネはイエスさまのことを示し続けました。
    何よりも、ヨハネは自分のその役割を喜んでいたことを
    著者は伝えています。
    ヨハネは、花嫁や花婿のような、
    結婚式の主役としてスポットを当てられる人物ではなく、
    その補助をする介添人として居続けることを望みました。
    脇役であることに徹することこそが、彼の喜びでした。

    ヨハネのこのような姿勢を見て、わたしはふと、
    自分の人生の主役は誰なのだろうかと、考えました。
    わたしという、ひとりの人間の人生の物語は、
    わたしが中心に紡がれていくものですから、
    主人公がわたし自身であることは、疑いのない事実です。
    でも、わたしから主役の座を奪い取りにくる状況に、
    たびたび遭遇することがあるでしょう。
    ある人は、自分のこどもが主役だと言います。
    ある人は、親の願いを叶えるために生きていると言います。
    ある人は、仕事のために命をすり減らします。
    ある人たちにとって、それはとても耐え難いことです。
    主役の座を無理やり奪われたことになるからです。
    でも、他の人たちにとっては、喜ばしいことです。
    自ら進んで、脇役の位置を選ぶからです。

    ヨハネは、自分の人生を歩んでいく上で、
    キリストを指し示す、脇役という生き方を選び取りました。
    自分が主人公である物語の中で、
    脇役の役割を自ら進んで果たしました。
    もしも、弟子たちの願いを叶えようとして、
    キリストを指し示すのをやめて、
    自分が神に選ばれた救い主のように生きようとしたならば、
    それは、ヨハネが誰かの願いを中心に
    生きたことになってしまったでしょう。
    ですから、自分の願いや感情を押し殺して、
    キリストを指し示すその役割を担ったのではなく、
    喜んでその役割を引き受けたヨハネは、
    あくまでも、自分の人生においては主役でした。

    けれど、ヨハネがまさに脇役であり続けたのは、
    自分の人生ではなく、他の人の人生においてでした。
    他の人たちを押しのけて、誰かの人生の主役に
    自分がなる必要性をヨハネは感じていませんでした。
    むしろ、ヨハネが望んだのは、
    他の人にとっての脇役に徹することでした。
    すべての人にいのちを与え、
    すべての人の光であるイエスさまを指し示し、
    イエスさまと出会った人たちが、喜びを抱く。
    それこそが、ヨハネが脇役に徹することによって望んだことでした。

    洗礼者ヨハネがそうであったように、
    わたしたちも、誰かの人生の主役になる必要はありません。
    もちろん、わたしはわたしの人生の主役です。
    けれど、他の人にとっての
    主人公にまでなる必要はありません。
    まして、力付くで主役の座を奪う必要などありません。
    結婚式にいる介添人が主人公になることはありません。
    けれど、その働きを通して、
    結婚式全体はより喜びに溢れて、
    その場にいる人たちのいのちが豊かにされるはずです。
    結婚式の介添人のように、
    必要とされる助けを提供することが出来るならば、
    共に生きる人たちに喜びをそっと添える、
    素敵な脇役になれます。
    共に生きる人たちのそばに立って、
    喜ばしいときは一緒に喜び、
    悲しいときは一緒に泣き、嘆く、
    そんなひとりの友人としてあろうとするならば、
    わたしたちは誰かにとっての素敵な脇役になれます。

    もちろん、わたしたちが関わる、
    すべての人にとって、わたしたち自身が
    いつもそのような素敵な脇役でいられるわけではありません。
    時間も能力も限られていますし、
    決められた台本があるわけではないため、
    求められていることをいつも最適にこなすことが
    出来るわけでもありません。
    けれども、神は、ヨハネがそうであったように、
    わたしたちが脇役として輝く場を用意してくださっています。
    それは、神の物語という、壮大な物語の中においてです。
    それは、神がこの世界に天の御国をもたらすという、
    大長編の壮大な物語です。
    その壮大な物語に、わたしたちは脇役として関わり、
    この物語を一緒に紡いでいます。
    わたしたち一人一人に出来ることは、
    ほんの些細なことかもしれません。
    けれども、誰もが神の御国を作り上げていく
    大切な仕事に加わっています。
    礼拝に来て、一緒に讃美歌を歌う。
    何気なくわたしたちが毎週続けていることですが、
    それさえも、わたしたちがお互いに神を指し示すことです。
    わたしたちにとっての、そんな何気ないことさえも、
    神が喜んで受け止め、天の御国を一緒に建て上げてくださる。
    そう考えると、何とやりがいのある働きなのでしょうか。
    神の物語における、脇役というものは。

週報より

  • 2024.03.17 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に、ランチの会があります。
    今回のランチの会は、石田学先生がご準備してくださいました。
    ランチの会は無料ですので、ぜひご出席ください。
    ランチの会への自由献金は歓迎します。

    ② 今週の土曜日にハイキングを予定しています(小雨決行)。
    午前7時30分に教会を出発し、焼森山のミツマタ群生地へ出かけます。
    費用は、保全協力金(中学生まで無料)やランチ代を含めて、
    ひとり当たり2,000円ほどかかる予定です。
    参加を希望される方は、受付テーブルの上にある用紙にご記名お願いします。

    ③ 次の日曜日は「しゅろの主日」です。
    キリストは、生涯の最後の一週間をエルサレムで過ごしました。
    その最初の日に、エルサレムへ入城したキリストは人びとに迎え入れられます。
    キリストが逮捕され、十字架上での死へと至る受難週が始まる最初の日として、
    わたしたちはこの日を記念します。

    ④ しゅろの主日の翌週、3月31日(日)は復活祭(イースター)です。
    主イエスがよみがえられ、復活と永遠のいのちへの望みを
    わたしたちに与えてくださったことを喜び、お祝いします。
    礼拝の後に、有志の方による持ち寄りで、食事をともにします。
    食べ物を持ち寄ってくださる方は、よろしくお願いします。
    食事としばらくの交わりの後、有志の方で墓参にまいります。


    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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