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朗読箇所

四旬節第1主日

イザヤ書 45:23–25


23 わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば
その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ
すべての舌は誓いを立て
24 恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。主に対して怒りを燃やした者はことごとく
主に服し、恥を受ける。
25 イスラエルの子孫はすべて
主によって、正しい者とされて誇る。


フィリピの信徒への手紙 2:1–11

◆キリストを模範とせよ
1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

説教

主にある謙遜に生きる

  • 説教者  稲葉奈々神学生(日本ナザレン神学校 2年)

     

    みなさま、おはようございます。本日は、フィリピの教会へとパウロが宛てて書いた手紙から、御言葉を取り次ぐ機会が与えられました。
    フィリピの教会への手紙を読んでみると、その中にはパウロが語る喜びと、
    彼らへの励ましの言葉が沢山書き記されています。
    もちろん、フィリピの教会のなかにも色々な困難はあったようですけれども、
    パウロは、フィリピの教会へ向けて喜びを示し、彼らを励ますことにこの手紙の焦点を当てていました。
    今日開いた2章の1節から4節では、キリストを模範とする私たちがこの地上でどのように生きるべきかについて、
    パウロの勧めが書き記されています。
    日本社会に生きる私たちの目に留まりやすいのは、恐らく3節の部分ではないでしょうか。
    3節にはこう書かれています。
    3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。
    日本の文化においては、へりくだる姿勢、つまり「謙遜」を美徳とする文化が広く根付いています。
    人から褒められたときに、「いやいや、私はそれほどでも…」と返したり、
    自分の持っている能力を見せびらかすことを良しとしない
    文化の中で生きている私たちにとっては、
    3節の言葉は本当にその通りだなと素直に受け止めやすいかもしれないですね。
    しかし、パウロがここで語っている「へりくだりの姿勢を持て」とは、
    私たちが思い描くものとは少し違った意味を持っていたようです。
    フィリピ教会の人々の文化においては、
    謙遜の姿勢は良いものとは捉えられいませんでした。
    むしろ、他者に対してへりくだって慎ましい態度を取るということは、
    奴隷や身分の低いものを特徴づける振る舞いでした。
    誰かから「謙遜であれ」と命令されることは、相手よりも身分が低いものであると認め、
    それによって発生する様々な不利益を被りなさいと言われているも同然でした。
    そんな、ある種の侮辱的な意味あいを持っていたのです。
    そのような文化の中で生きる人々にとっては、自分と相手との関係を築いていくときに、
    無意識のうちに、どちらが上か下か見定め、上下関係を物差しにしていたことでしょう。
    ましてや、あえて己を低くするなんて態度は、できるだけ避けて生活したいと思っていたはずです。
    そんな彼らへ向けて、パウロはキリストが貫き通した姿勢を例にあげて、
    あなたがたもこのようにありなさいと励ましました。
    キリストが貫き通した姿勢とは、彼のその生涯のなかにあらわれています。
    今日開いたフィリピ2章の6節から11節は、
    「キリスト賛歌」と呼ばれる詩が書き記されており、
    ここに、キリストがどのように私たちにへりくだりの姿勢を示してくださったのかが描かれています。
    それはつまり、神であるはずのキリストが、
    肉体という制限を持った状態になってこの地上に生まれ、
    ユダヤ社会の中で生活し、様々な屈辱を味わいながら十字架にかかって死に、
    そして天に挙げられた一連の出来事についてです。
    パウロはなぜ、手紙の中でこのキリスト賛歌を引用したのでしょうか。
    それは、キリストの死の姿について考えてみることで、少し答えが見えてくるかもしれません。
    キリストが受けた十字架刑というのは、
    ただの死刑執行というわけではありませんでした。
    その目的は、主に、受刑者を「社会的な見せしめ」にすることにありました。
    十字架刑の執行の前には原則として、
    あらゆる類の虐待、傷害、侮蔑が行われるのが通例だったようです。
    それらの後には衣服をはぎ取られ裸にされ、さらに周囲からの恥を上書きさせます。
    そして人々からよく見えるように、開けた丘の上へとのぼり、
    受刑者の背よりも高い十字架に打ち付けられて、高々と公衆の面前に晒されました。
    時には、受刑者がすぐ死んでしまわないよう、延命させるために、
    あえて十字架に支えを付けて、できるだけ長く苦痛を引き伸ばされることもありました。
    そのようにして、十字架に架けられた人物は、
    長ければ数日にわたり、息を引き取るまでその姿を見せしめにされ、侮辱され続けたのです。
    死にゆくものへの尊厳をことごとく奪い取り、
    浴びせることができる恥をことごとく浴びせてから死へと追いやる、
    そのような刑罰だったのです。
    そんな辱めを受ける救い主イエスさまの姿は、
    当時の文化に生きる人々にとって、
    彼らの望む救い主の姿とはかけ離れたものだったでしょう。
    私たちの救い主は、もっと威厳があって、自分たちよりも高い存在として、
    社会的にも認められる姿がふさわしいはずなのに、
    どうしてキリストはあんな惨めな死に方をしたのだろうと思っていたかもしれません。
    しかしパウロは、それが私たちのあるべき姿だ、と語りました。
    福音書にみられる、キリストのこの地上での生き方は、
    当時の社会の価値観にとらわれない、己を低くする生き方でした。
    神の形でありながら、人という形をあえて選んでこの地にくだり、
    自ら弟子たちの足を洗って、嫌われ者やまずしい者たちと食事をして、
    その生涯を通して、常につねに、
    己を低くして私たちに仕えることを選んでくださったのです。
    一体どうしてでしょうか?
    万物の創造主である神は、別に人の姿とならなくとも
    私たちをはるか遠い場所から一方的に見ているだけでもよかったはずです。
    しかし、あえて人の形をとってこの地上に降りてこられた。
    それはなぜでしょうか? 
    …私たちの友となるためです。
    神と人という隔たりをのり超えて、
    私たちの友として、双方向の関わりを持つためです。
    キリストが生まれてから死ぬまで、その生涯を通して他者に仕えたことによって、
    私は、あなたをこんなに愛しているのだと伝えるためです。
    すごいことではありませんか。この事実に、私はいつも圧倒されてしまいます。
    私たちのために、友となってくださった神が、
    あなたのために私はここまで己を低くするのだと、
    十字架刑を受ける姿をもって証明してくださった神が。
    そんな神が、パウロを通して、私にならって生きるように と私たちに示されたのです。
    パウロもまた、この手紙を書いたとき、獄中に捉えられていました。
    彼もまた、キリストと同じように、
    社会的な屈辱を味わって、命の危険に晒されながら生きていたのです。
    しかしパウロは、牢屋にではなく、キリストに捉えられた生き方をしていました。
    だからこそ、辛い状況にもむしろ感謝を示し、
    自分の置かれている環境が福音の前進に用いられるのだと、
    心から告白することができたのでしょう。
    たとえ困難な状況においても、良いことも悪いことも、
    すべて福音を述べ伝えるための糧となると、心から喜んで、
    今自分のできることをやろうと決心して手紙を書き記したパウロの言葉は、
    フィリピの教会の人々をどれほど励ましたことでしょう。

    そんなパウロが語る、キリストのように謙遜して互いにへりくだるとは
    一体どのようなものなのでしょうか。
    2章2節にはこのように書かれています。2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
    パウロが薦める4つの行い。
    それは、私たちが同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにするということです。
    これらの4つの勧め、みなさんにとってはひょっとすると、
    世間でもよく耳にするような道徳的な教えと同じように聞こえるかしれませんね。
    しかし、キリストのこの地上での姿を思い描きながらこの箇所を読んでみると、
    全く違った受け止め方ができるのではないでしょうか。

    私たちがキリストにならって「同じ」思いとなる「同じ」愛を抱く、とは、
    ただ単に、私たちが他人を見下すことをやめましょうとか、困っているひとがいたら助けましょう〜とか、
    そのような教えの次元を超えています。
    十字架の死に至るまで、己を低くしたキリストにならう。
    つまりわたしたちは、全員が全員、揃いも揃って、
    同じ用に、最も低いものとなるように勧められているのです。
    あの人よりもとか、この界隈よりもとかではなく、
    この世界のすべてに対して、最も低くなるようにと。
    自らも牢屋の中から語りかけるパウロのこの言葉が、私たちにの心にも響いてこないでしょうか。

    この考えに立つときに、3節の言葉がさらに豊かな広がりを持っていきます。
    3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。
    キリストにおけるへりくだりとは、
    自分が相手のために何かをしたとしても、そこに上下関係が発生しないということです。
    だれかからの見返りを求めず、だれからも評価されなかったとしても、
    いやむしろ世間から笑われて、理解されなかったとしても。
    それでもなお、自分を投げ打って、自分の能力の全てをもって他者を愛することです。
    パウロもそうでした。牢屋に入れられ、明日どんな仕打ちが待っているかわからない。
    しかし私にはフィリピの教会を励ますことができる。
    だったら今自分ができることをやろう、
    自分の能力を捧げて彼らを全力で愛そうと、
    キリストに倣った生き方を貫いたのでした。
    私たちはへりくだりの意味を履き違えてはいけません。
    主にあるへりくだりとは、他者に対して受け身の姿勢であることではないのです。
    むしろ、私たちが持っている賜物をよく吟味し、今できることはなにかを考え、
    他者のために存分に捧げていく生き方こそが、主にあるへりくだりの姿ではないでしょうか。
    日本社会の謙遜にならって、自分を低く見積もって、
    「いやいや、そんな大したものじゃないですよ」と私たちは言えるでしょうか。
    とんでもありません。
    キリストの死を対価にされるほど私たちは高価で尊い存在だと、
    他でもない主が認めています。
    私たちの持っている賜物はそんな主から良しとして与えられたものであり、
    内側に留めておくべきものではないのです。
    己を低くして仕えるということは、私たちにとって辛いタスクではないのです。
    むしろ、神によしとされたものを喜んで差し出し、
    お互いのために用いてくことはとても自然で、
    社会の物差しに縛られない自由な生き方のはずです。
    それは利己心や虚栄心が入る隙間のない、
    喜びに満ちた行いなのだとパウロは語っているのではないでしょうか。
    わたしたちがキリストの姿に心を砕かれ、
    本当にその姿を追い求めたいと切望するとき、
    私たちは同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、
    他者に仕える共同体となっていくことができます。
    パウロが私たちに示したかったのは、
    そのような愛によって強く結ばれる教会の姿ではないでしょうか。
    私たちはもう一度思い起こしましょう。
    キリストがこの地に生まれてきた理由は、
    私たちにその身を捧げるためでした。
    社会のものさしにとらわれず、キリストの目でこの世界を見渡して、
    ほんとうに相手を愛するとはどういうことかを、
    みずからの生涯をもって教えてくださいました。
    愛する教会のみなさま。この世界を見渡すと、
    つねに誰かが誰かを従わせようとして、
    権力の争いが世界を支配しているような世の中です。
    しかし、私たちは絶望することがありません。
    なぜなら、私たちがキリストにならう生き方を選んでいくとき、
    何が一番大切にすべきかをすでに知っているからです。
    キリストの目で世界を見るときに、苦難は喜びへと変わります。
    そして私たちが、私たちの集う教会が、この社会のあり方と違う生き方を選ぶことで、
    この世界の灯火となっていくことができるのです。
    だから私たちはいつも
    キリストの示した徹底的なへりくだりを思い起こしましょう。
    そして与えられた賜物を豊かに用いて、
    お互いを全力で愛し、仕えてゆきましょう。
    悲しんでいる人がいたらともに悲しみましょう。
    嬉しいことがあったら、ともに全力で喜びましょう。
    大声で主に賛美しましょう。
    そして、私たちの賜物が正しく用いられるように、いつも祈りましょう。
    私たちのために最も低くなられたキリストが、いつも共にいてくださいます。

週報より

  • 2026.02.22 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に月報『モレノ』編集会を行います。
    モレノ編集チームのみなさま、よろしくお願いいたします。
    モレノ編集チームは、みなさまの原稿・写真・絵などの投稿を募集しています。
    エッセイ、詩、書籍や映画などの紹介文などをご自由にご寄稿いただけます。

    ② 先週の日曜日は教会総会を開催しました。
    ご出席くださったみなさま、ありがとうございました。
    こどもの居場所支援、民泊サービスの開始、駐車場のことなど、
    教会のこれからについて自由に話し合う時間を持つことができました。
    総会では、新年度の教会役員の選挙が行われ、5名の方が選出されました。
    新しい年度の役員の方たちの働きのためにお祈りください。
    その他のことついては、きょう配布した報告書をお読みください。

    ③ 外壁塗装のための献金へご協力お願いします。
    外壁塗装のための献金にご協力いただける方は、
    受付正面の壁にかけてある献金袋や予約献金の申込用紙をご利用ください。
    外壁塗装の献金は目標金額(145万円)まで残りおよそ6万円です。

    ④ 4月からの係の礼拝の係やチームにご協力いただける方を募集しています。
    週報にはさんである申し込み用紙をご覧ください。
    係を担当してくださる方は記入して、
    受付テーブルの上の白い箱に入れてください。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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