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朗読箇所

公現後第7主日

旧約 創世記 18:1–8

◆イサクの誕生の予告
1 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。
2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、
3 言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。
4 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。
5 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」
6 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」
7 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。
8 アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。


新約 ヨハネによる福音書 8:37–47


37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。
38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」
◆反対者たちの父
39 彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。
40 ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。
41 あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、
42 イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。
43 わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。
44 あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。
45 しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。
46 あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。
47 神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」

説教

神のもとで、私たちは何者なのか?

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    私は時々、何かものを書く時に
    自分のプロフィールを
    書くことを求められます。
    読み手に合わせて
    内容を調整できたら良いのですが、
    大抵の場合、無難な内容になります。
    生まれた年や出身地、
    これまでの経歴、
    現在小山教会で牧師をしていること、
    趣味などを書きます。
    無難とは言いつつも、やはり、
    このような情報は、
    私、稲葉基嗣という人間が何者であるのか、
    その一部でも読者に伝えることが
    できるものだと思います。
    そのように私が考えるから、
    たとえ無難なものであったとしても、
    このような情報を
    私は読み手に提供するのでしょう。


    イエスさまが生きた時代の
    ユダヤの人びとにとって、
    彼らが何者であるのかを伝える情報とは、
    どのようなものだったのでしょうか。
    イエスさまは自分の出身地以外で、
    ナザレの村出身のイエス
    と認識されています。
    また、イエスさまのことを
    もう少しよく知る人たちは、
    イエスさまのことを
    ヨセフの子イエスとして、
    認識していました。
    このふたつの呼び方、
    特に父親の名前を用いて
    人の名前を記すことは、
    旧約聖書でも新約聖書でも
    とても一般的なものでした。
    それは、彼らが生きていた社会が、
    家の長である父親を頂点とする
    コミュニティだったからです。
    彼らにとって、家長を中心とするこの家族は、
    3世代ほどの人びとが集う大きな家族です。
    現代の日本社会に生きる
    私たちが想像するよりも、
    もう少し大きな規模のコミュニティが、
    彼らの生活の基礎でした。
    そんな彼らにとって、
    自分が何者なのかを伝える上で、
    家の代表者である父親の名前を出すことは、
    とても自然なことでした。
    そのような社会の中で
    生きた人びとの手によって、
    紡がれた言葉が収められているため、
    聖書に登場する人びとの多くは、
    ヨセフの子イエスというように、
    父親の名前が付けられて
    紹介されています。
    このように、現代に生きる私たちとは違って、
    ある人が何者なのかを
    周りの人たちが知るために、
    父親が誰であるのかは
    とても重要視されていた情報でした。


    自分が誰の子であるのか。
    それは、どのコミュニティに
    自分が所属しているのかだけでなく、
    自分の民族的な出自を明らかにするものでした。
    ヨハネによる福音書が紹介する、
    ユダヤ人たちとイエスさまの論争の中で、
    「アブラハムの子」という言葉が登場し、
    この言葉が問題となっています。
    アブラハムは、イエスさまよりも
    2000年以上前に生きた人物として、
    旧約聖書のはじめに登場します。
    ですので、当然、彼らはアブラハムが
    自分の父親だと主張しているのではありません。
    ユダヤ人たちの先祖である
    イスラエルの民は、
    アブラハムから始まりました。
    神がアブラハムに呼びかけ、
    アブラハムが神の呼びかけに応えて、
    旅立ったことから、
    古代イスラエルの歴史が始まりました。
    ですから、ユダヤ人たちにとって、
    アブラハムは民族的に重要な先祖です。
    神に選ばれて、神の呼びかけを受けた
    このアブラハムの子孫が自分たちなのだ。
    そんな民族的誇りが込められているのが、
    アブラハムの子という言葉でした。


    このとき、イエスさまと論争をしていた、
    ユダヤの宗教指導者たちが
    自分たちのことをアブラハムの子だと
    言ったことについて、
    イエスさまは彼らの発言を認めつつも、
    疑問を投げかけました。
    イエスさまはアブラハムの子という時、
    ふたつの言葉を使い分けています。
    ひとつは、日本語訳聖書では、
    「子孫」と訳されています。
    民族的な背景として、
    ユダヤ人たちはアブラハムの子孫である。
    このことをイエスさまは否定しません。
    アブラハムからユダヤ人の子孫である、
    イスラエルの民が起こりました。
    ユダヤ人たちの民族的な背景は、
    まったくその通りだと
    イエスさまは認めています。
    けれども、その一方でイエスさまは、
    民族的な結びつきよりも、
    親子関係について伝えたり、
    単に子どもであることを伝える単語を用いて、
    「アブラハムの子」という表現も使いました。
    そうすることによって、イエスさまは、
    民族的な結びつきとは違う面で、
    ユダヤの宗教指導者たちが
    アブラハムの子であることについて、
    疑問を投げかけました。


    イエスさまは「アブラハムの子なら、
    アブラハムと同じ業を
    行っているはずだ」(39節)と言って、
    彼らの行動の方に目を向けます。
    民族的な面での
    アブラハムとの結びつきではなく、
    信仰的な生き方として、
    アブラハムの子どもらしく生きているのかを
    イエスさまはここで問いかけているのです。
    いえ、問いかけるだけでなく、
    イエスさまはすぐさま、
    彼らユダヤの宗教指導者たちが
    イエスさまのことを
    殺そうと企んでいると言いました。
    実際、彼らにとって、
    イエスさまの存在は徐々に
    不都合なものになっていました。
    イエスさまは何度も
    人びとが当たり前だと思っていたことに
    疑問を投げかけていたからです。
    人びとから疎まれ、嫌われている人たちと
    喜んで関わりを持つイエスさまの姿は、
    社会のあり方に疑問を投げかけるものでした。
    神殿で商売をする人たちを追い出して、
    「私の父の家を商売の家としてはならない」(2:16)
    とかつて叫んだイエスさまの言葉は、
    ユダヤの人びとの間に
    混乱をもたらしたかもしれません。
    このような人物であるイエスさまを
    排除しようとすることは、
    ユダヤの宗教指導者たちにとって、
    自然な流れだったのかもしれません。
    けれども、それは、本当に
    アブラハムの子孫らしい生き方なのでしょうか?
    アブラハムの信仰的な生き方に
    倣うような、行いなのでしょうか?
    イエスさまはそのように問いかけています。
    いや、アブラハムの子とは
    正反対の行いをしていると、
    イエスさまは彼らに訴えています。


    この時、イエスさまが心に浮かべたのは、
    さきほど開いた創世記18章の物語だったと思います。
    そこに記されていたのは、
    突然自分のもとに訪ねてきた3人の旅人たちを
    アブラハムがもてなしたという場面です。
    旅人のもてなしは、聖書の舞台において、
    大きな美徳とされていました。
    何よりも、アブラハム自身は、
    自分が旅人でした。
    ですから、旅をする人たちの境遇をよく理解して、
    彼は旅人たちをもてなしたと思います。
    また、この時アブラハムのもとに
    現れた旅人たちは、神から送られてきた
    天使のような存在でした。
    ですから、アブラハムは
    神が自分のもとに遣わしてきた人たちを
    もてなした、といえます。
    アブラハムの信仰的な生き方に
    倣おうとするならば、
    どのような行動がユダヤ人たちには、
    求められていたのでしょうか。
    それは、旅人を受け入れることであり、
    神が自分たちのもとに
    遣わしてくださった人たちを
    受け入れることでしょう。
    けれども、ユダヤの宗教指導者たちは、
    神が彼らのもとに遣わした
    イエスさまを煙たがり、
    イエスさまへ殺意を抱き、
    イエスさまの排除を企てていました。
    そうすることによって、
    彼らは自分たちの生き方は、
    到底アブラハムの子とは
    呼べるものではないことを露わにしました。
    彼らは、自分たちとは異質な存在を
    排除しようとしました。
    自分たちとは相容れない存在を拒絶しました。
    それは、旅人を受け止めた
    アブラハムの行動や生き方とは
    正反対のことでした。


    だから、イエスさまは
    彼らが、アブラハムの子として
    生きていない現実を
    強い言葉を用いて指摘したのでしょう。
    「あなたがたは、
    悪魔である父から出た者である」(44節)と。
    このイエスさまの言葉は、
    ユダヤ人全体を指して、
    悪魔の子と伝えているものではありません。
    私たちはこの物語の中で紹介されている、
    イエスさまの言葉を読む時、
    ユダヤ人であるイエスさまと、
    ユダヤの宗教指導者たちの間で
    行われた論争の中で交わされた
    激しい言葉であったことを
    認識する必要があります。
    ですから、イエスさまの目的は、
    ユダヤ人たちが悪そのものだと
    断定することにはありませんでした。
    そうではなく、自分たちにとって
    不都合な人物を排除し、
    受け入れない姿は、
    アブラハムの子と呼ばれる
    彼らのあるべき姿からは程遠く、
    寧ろ、神のもとから遠ざかっているかのようだ。
    まるで、神に反逆する、
    悪魔に属している者であるかのようだ。
    どうか、それに気づいて、
    アブラハムの子としてまた歩み直してほしい。
    そんな願いを込めて、
    このように強い言葉で
    イエスさまは語ったのではないでしょうか。
    残念ながら、イエスさまの言葉を聞いた
    ユダヤの宗教指導者たちはその後、
    最終的に石を手にとって、
    イエスさまを殺そうとします。
    また、とても長い期間、
    このイエスさまのこの発言は、
    ユダヤ人への差別や迫害を正当化する言葉として、
    受け止められてしまいました。
    実に虚しく、イエスさまの訴える言葉は響きました。


    きょうイエスさまの言葉に
    耳を傾けるわたしたちにとって、
    イエスさまとユダヤの宗教指導者たちの間で
    交わされたこの論争は、
    何も他人事ではありません。
    だって、自分にとって
    不都合であるものを受け入れない姿勢は、
    私たちの社会やこの世界に蔓延しているからです。
    外国人労働者や移民が増えてきた
    現在の日本社会において、
    何度も何度も、治安が悪くなるという
    偏見に基づく声が聞こえてきます。
    自分とは異なる文化を受け止めきれず、
    壁を作り出し、相手を知ろうともしない。
    自分とは状況が異なる人たちの生活を
    うまく想像できない、
    関心を抱けない、無関心でいる。
    いや、無意識に存在しないものとみなしてしまう。
    それは、旅人をもてなしたアブラハムとは、
    正反対の姿勢です。


    アブラハムにとって、
    旅人をもてなすことは自然なことでした。
    何よりも、彼自身が旅人だったからです。
    彼は、神が指し示す方向を
    目指して歩む旅人でした。
    彼自身が旅人であったから、
    他の旅人たちが経験する困難を
    彼は想像することができました。
    同じように、信仰において、
    天の御国を目指す旅人であるという点において、
    私たちもアブラハムと同じ旅人です。
    私たちがこの世界において、旅人であるならば、
    私たちはお互いに受け入れ合い、受け止め合い、
    支え合って歩むことがどうしても必要です。
    私たちが旅人であり続けることは、
    共に旅をする仲間たちへの
    想像力を育むことでしょう。
    何が必要であるのか。
    何に困っているのだろうか。
    何に悲しみ、苦しんでいるのだろうか。
    何が助けとなるのだろうか。
    私も、この場所で顔を合わす人たちも、
    私たちが共に生きる人たちも、
    誰もが旅人であると気づくならば、
    私たちはこれまでよりも、少しだけでも、
    誰かの痛みや困難に優しくなれるかもしれません。
    誰かの叫び声に耳を傾けられるかもしれません。
    そのようにして、
    私たちが旅人であり続けることがきっと、
    この世界で助けを必要としている
    他の旅人たちを思う想像力を育み、
    彼らに手を差し伸べるきっかけや
    行動を生み出すことでしょう。
    アブラハムが旅人たちをもてなしたように。
    そのように、私たちが天の国を目指して
    歩む旅人であるならば、
    私たち自身も信仰においては、
    アブラハムの子であるといえるでしょう。
    ですから、私たちは、この世界において、
    決して揺るがない、
    安定した基盤を持っている定住者ではありません。
    私たちは誰もが、
    いつも変化する状況に右往左往しながら、
    安住の地を求めて歩んでいる旅人です。
    どうか、目的地である
    天の御国をいつも見失わないように、
    共に旅をする仲間たちと一緒に
    手を取り合いながら
    これからも歩み続けることができますように。
    そのようにして、人生のどのような瞬間も、
    共に生きる仲間たちと一緒に
    信仰の旅路を歩むことができることは、
    私たちにとって大きな喜びです。

週報より

  • 2025.02.23 週報より抜粋・要約

  • ① 先週の日曜日は教会総会を開催しました。
    ご出席くださったみなさま、ありがとうございました。
    教会のこれからについて自由に話し合う時間を持つことができました。
    総会では、新年度の教会役員の選挙が行われ、5名の方が選出されました。
    新しい年度の役員の方たちの働きのためにお祈りください。
    その他のことついては、きょう配布した報告書をお読みください。

    ② きょうは礼拝後に月報『モレノ』編集会を行います。
    モレノ・チームのみなさま、よろしくお願いいたします。

    ③ 4月からの係の礼拝の係やチームにご協力いただける方を募集しています。
    詳しくは受付テーブルにある申し込み用紙をご覧ください。
    係を担当してくださる方は申込用紙に記入して、
    投書箱(受付テーブルの上の白い箱)に入れてください。

    ④ 次週、3月2日の礼拝の中で転入会式を行います。

    ⑤ 次週礼拝後、新旧役員合同で月例教会役員会を行います。
    新年度の役員との引き継ぎと新年度の役割決めをおこないます。

    ⑥ 3月20日(木・祝)に小山市内の教会の子ども交流会が開催されます。
    10時から11時半に、小山総合公園で行います。参加費は無料です。
    人数把握のため、参加予定の方は基嗣牧師までお知らせください。


    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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