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朗読箇所

復活祭

旧約 創世記 1:1–5


1 初めに、神は天地を創造された。
2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。


新約 ヨハネによる福音書 20:11–18

◆イエス、マグダラのマリアに現れる
11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

説教

混沌とした世界に、神の息吹

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    「主はよみがえられた」。
    それは私たちにとって、
    キリストの復活をお祝いする、
    イースターの日の合言葉です。
    私たちは毎年、この日に、
    キリストの復活の物語に耳を傾け、
    キリストが死者の中から
    よみがえられたことを思い起こします。
    そして、この事実を喜んで賛美歌を歌い、
    お祝いをしています。
    十字架の上で息を引き取り、
    お墓に葬られたキリストを
    神が復活させてくださいました。
    そして、キリストの復活は、
    神が将来、私たち一人ひとりに
    新しい命を与えてくださることを約束し、
    希望を与える出来事です。
    私たちを愛し、慈しんでおられる神は、
    神がキリストに復活の命を与えたように、
    将来、私たちに復活の命を
    与えてくださいます。
    そのような信仰的な確信を抱いて、
    「主はよみがえられた」と言って、
    私たちはイースターをお祝いしています。


    けれども、このイースターの日の合言葉は、
    この世界の当たり前とは、
    真逆のことを伝えています。
    というのも、「死んだらそれで終わり」
    というのが、この世界の当たり前だからです。
    たしかに、医療技術の発達によって、
    人間の寿命は長くなり、
    命を延ばすことが
    多少はできるようになりました。
    人生百年時代とも言われるほどです。
    けれども、だからと言って、
    人類が死から逃れられるように
    なったわけでもなく、
    死を克服したわけでもありません。
    死を迎える瞬間は誰にも訪れます。
    私たち人間の力では、
    誰も死を乗り越え、
    死に完全に勝利することなどできません。
    むしろ、死の前で人間は無力。
    死こそが最終的な勝利者である。
    ということが常識的な感覚でしょう。
    私たち人間は、誰一人として、
    死を乗り越えることは
    できないのですから。
    ですから、「主はよみがえられた」と
    声を合わせて叫ぶよりも、
    「よみがえり?
    そんなのあり得ないでしょ?」
    と鼻で笑う方が私たちにとっては、
    馴染み深い考えであり、
    そしてとてもわかりやすい結論です。


    ただ、私たちがそんな風に、
    死者の復活という考えを
    鼻で笑いたくなるのは、
    もしかしたら、
    常識的に考えて無理だから
    という理由だけでは
    ないのかもしれません。
    今、私たちの世界は
    どうしようもないほどに、
    死に囲まれています。
    戦争や紛争が絶えず起こり、
    あまりにも簡単に
    平穏な日常が失われ、
    人の命が奪われています。
    経済の不安定さや
    あまりにも簡単に揺らぐ
    お金やモノの価値に、
    将来の不安を隠せません。
    そういったことに
    振り回されるだけならまだしも、
    経済の不安定さや、物価の高騰は、
    多くの人の暮らしや
    命そのものを脅かしています。
    社会の少数派の人たちの尊厳は、
    何度も傷つけられ、
    踏みにじられています。
    私たちの知識のなさや配慮のなさが、
    どれほど当事者たちを
    傷つけていることでしょうか。
    自然災害が繰り返し起こっています。
    紛争や政治的なしがらみは、
    災害からの救援を行う上で
    大きな障害となっています。
    そんなふうにして、
    命を軽く見られ、否定されることに、
    私たちの世界は
    慣れきってしまっているのかもしれません。
    命の回復も、復活も、再興も、
    再び立ち上がることさえも、
    現実的とは思えない。
    希望を見いだせない。
    そんな世界の中で
    私たちは生きています。


    そんなイースターの出来事とは
    真逆の光景は、
    創世記1章の物語を
    耳にした人たちの眼の前にも
    広がっていました。
    創世記1章は、神がこの世界を造り、
    祝福した様子を伝えています。
    色鮮やかに、命が豊かに
    この世界全体に広がっていく。
    そのような光景がこの物語を読む時、
    目に浮かびます。
    けれども、神がこの世界を
    造るその前の状態は、
    どうしようもないほど、
    めちゃくちゃで、荒れ果てていて、
    命の息吹など感じられない。
    死に支配され、
    暗闇に覆われた世界だったと、
    創世記1章は伝えています。
    この世界は混沌としていて、
    死と混沌の力の象徴である水によって、
    この世界は覆われ、暗闇に包まれていた。
    そのようを伝えることから
    この物語は始まっています。


    このような世界の描き方は、
    創世記1章の物語を聞いた人たちの
    置かれていた状況を反映していると、
    現代の聖書学者たちは考えています。
    それは、世界史でバビロン捕囚と
    呼ばれる出来事を経験した人たちの
    眼の前に広がっていた世界です。
    彼らは自分たちの故郷が
    バビロニア軍によって破壊され、
    大きな力によって蹂躙され、
    仲間や家族が殺され、
    見知らぬ地へと
    強制的に連れて行かれました。
    そう、彼らの世界は
    徹底的に崩されました。
    死が襲いかかり、
    どうしようもないほどに、
    彼らの世界は否定されました。
    そんな死の力に支配され、
    暗闇で覆われている
    彼らの置かれている状況に
    重ね合わせながら、
    創世記1章の言葉は紡がれています。
    世界は混沌としていて、
    暗闇で覆われていて、
    命が傷つけられ、否定されている。
    再び立ち上がり、再出発する可能性など、
    想像することさえできない。
    こんな死に覆われて、
    何もかも否定された世界で、
    命の光を見出すことなんてできない。
    何の希望も持てない。
    それが、創世記1章が
    はじめに伝えている、
    混沌とした暗闇に覆われた世界です。


    けれども、そんな混沌とした世界に、
    神が手を伸ばしてくださいました。
    そんな死と暗闇で覆われた世界に、
    神が「光あれ」と語りかけることから、
    この世界に命が広がりました。
    そのような希望のはじまりを
    この物語は伝えています。
    暗闇に覆われ、死の力に支配され、
    混沌としている世界を
    神が光によって照らしてくださる。
    自分たちの置かれている
    このぐちゃぐちゃで、
    どうしようもなく、
    死と暗闇に覆われた世界に、
    神が働きかけてくださる。
    そんなメチャクチャな世界を
    神が祝福してくださる。
    ここに、命を芽吹かせてくださる。
    この世界を造った神は
    それができる方ですし、
    この世界が死に覆われるのではなく、
    命に溢れることを望んでおられます。
    だから、神は
    この世界に手を伸ばしました。
    「光あれ」と語りかけ、
    命の息を吹きかけました。
    そして、神がそのような方だと知っているから、
    キリスト教会は、このような出来事が
    私たち一人ひとりの人生に、
    そして、この世界に起こると信じています。
    十字架の上で死んで、葬られた
    イエス・キリストに
    神が復活の命を与えたように、
    死で覆われた混沌としたこの世界に、
    神は命を与えてくださる。
    キリストを復活させたように、
    死の前に無力な私たちを将来、
    神がよみがえらせ、
    永遠の命を与えてくださいます。
    そう、あの日、
    キリストがよみがえられたからです。


    ところで、キリストの復活は、
    私たちにとって、将来の希望しか
    与えないものなのでしょうか。
    今この時、混沌としていて、
    暗闇と死に覆われているように思える
    この世界において、
    キリストの復活は今このとき、
    何の意味もなさないのでしょうか。
    いいえ、キリストを復活させた神は、
    命を癒やし、新しく生かす方です。
    イエス・キリストを
    私たちのもとに送ってくださった神は、
    私たちがイエスさまと出会うことを通して、
    この世界に復活の命の希望を
    届けることを選ばれました。
    それは、この世界で傷ついた
    私たち自身の命が
    イエスさまと出会うことによって
    癒しを受けることを通して、
    この世界の混沌や暗闇が
    少しずつ解消されていくことを
    目指すことによってです。
    イエスさまと出会い、
    イエスさまの愛や憐れみに触れた私たちが、
    その愛や憐れみを分け与えに出かけていく。
    そんな小さな積み重ねを通して、
    神は、キリストにある復活の命を、
    キリストにあって新しく生きる道を、
    この世界に届けようとしておられます。
    少しずつ、この世界の傷ついた部分を癒やし、
    この世界の混沌としたところに、
    平和や正義をもたらそうとしておられます。


    それは、キリストと出会った
    ひとりひとりの人を
    神が用いてなされることですので、
    劇的な大きな変化というよりは、
    ささやかで、小さな働きなのかもしれません。
    けれども、そんな小さく見える
    出来事を通して、神は将来訪れる、
    復活の日を待ち望んでいます。
    それはまるで、創世記1章において、
    神が「光あれ」と語りかける前に、
    混沌として、闇に覆われた
    状態であった世界において
    動いていた、神の霊のようです。
    霊と訳されている単語は、
    「息」とも訳すことができます。
    「光あれ」と神が語る前に、
    神の息とも訳せる言葉が登場することは、
    私たちがこの口から語る言葉と
    息遣いの関係を思い起こさせます。
    私たちが語る言葉は、
    私たちの吐く息に乗って伝えられるものです。
    ですから、神の霊が混沌として、
    闇に覆われた世界で
    動いていたことを伝えるこの言葉は、
    神の息が混沌とした世界に
    吹いていたとも読めます。
    その神の息は、
    まだ語られていない言葉です。
    けれども、その神の息は、
    混沌とした世界に命を届けるために、
    やがて必ず訪れるその瞬間を
    待っているかのようです。
    私たちの力ではどうしようもない、
    そんな混沌として、
    暗闇に覆われている世界において、
    今は目立たないかもしれない。
    今は聞こえないかもしれない。
    けれども、神は
    語りかける準備ができています。
    命を届ける準備ができています。
    そのために、神は既に動き始めています。
    イエス・キリストの復活は、
    その大きな一歩でした。
    「主はよみがえられた」。
    この言葉を合言葉として
    抱いて生きる私たちを通して、
    混沌とした世界に、
    神の命の息が広がっていきますように。
    復活の主イエスと共に、
    復活の希望を抱いて、
    私たちは今週もそれぞれの日常へと
    旅立ちましょう。

週報より

  • 2025.04.20 週報より抜粋・要約

  • ① 復活祭(イースター)おめでとうございます。
    主イエスがよみがえられ、復活と永遠のいのちへの望みを
    わたしたちに与えてくださったことを喜び、お祝いします。
    礼拝の後に、有志の方による持ち寄りで、食事をともにします。
    祝会の準備中に、エッグハントも行いますので、どうぞお楽しみください。
    食事としばらくの交わりの後、有志の方で墓参にまいります。

    ② 次週礼拝後に月報『モレノ』編集会をおこないます。
    モレノ・チームのみなさま、よろしくお願いいたします。

    ③ イースター献金にご協力ください。
    世界宣教とキリスト教団体への募金、教会の働きに用います。
    受付テーブルに献金袋がありますので、ご利用ください。

    ④ ナザレン教会を通じての能登半島地震救援募金は3月末で終了となりました。
    ご協力くださったみなさま、ありがとうございます。
    引き続き募金をすることをご希望される方は、
    能登地震キリスト災害支援会(能登ヘルプ)を通じて募金をすることができます。

    ⑤ ミャンマー大地震支援募金がナザレン教会で始まりました。
    3月28日にミャンマーを襲った大地震により大きな被害が出ています。
    私たちの教会は、ナザレン教会の国際援助機構を通じて、
    ミャンマーで助けを必要としている方々を支援することができます。
    受付テーブルの上にある白い箱で募金を集めます。
    ご協力よろしくお願いいたします。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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