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朗読箇所

三位一体後第11主日

創世記 9:18–29

◆ノアと息子たち
18 箱舟から出たノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった。ハムはカナンの父である。
19 この三人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がったのである。
20 さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。
21 あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
22 カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。
23 セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。
24 ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、
25 こう言った。「カナンは呪われよ
奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」
26 また言った。「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。
27 神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)
セムの天幕に住まわせ
カナンはその奴隷となれ。」
28 ノアは、洪水の後三百五十年生きた。
29 ノアは九百五十歳になって、死んだ。


マタイによる福音書 15:21–28

◆カナンの女の信仰
21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、
27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

説教

呪いではなく、祝福の始まりの場所となるように

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    きょうの物語の結末に、
    皆さんは納得がいくでしょうか。
    この物語は、ノアが自分の孫にあたる、
    カナンに呪いの言葉を伝えて
    終わっています。
    でも、物語の中で登場するのは、
    カナンではありません。
    その父親のハムの方です。
    それにも関わらず、
    なぜハムにではなく、
    カナンに呪いの言葉が
    伝えられるのでしょうか。
    いや、そもそも
    ノアに対するハムの行いも
    一体何が問題であったのかさえ
    わかりません。
    ノアの裸を見たからでしょうか。
    それとも、ハムが自分の父親が
    酔って裸になっていることを
    兄弟たちに伝えたからなのでしょうか。
    この物語が私たちに伝える情報は
    あまりにも少なすぎます。


    何よりも、この物語はむしろ、
    ノアの失敗談のようにも読めます。
    ノアはぶどう酒を飲んで酔っ払い、
    天幕の中で裸になっていました。
    気づいたら裸になってしまうほど、
    彼はリラックスして
    過ごしていたのだろうか、と感じますね。
    でも、酔いがさめて、
    何が起こったのかを知ると、
    ノアは怒り出し、
    「カナンは呪われ、
    兄弟の僕の僕となるように」(25節)
    と言って、カナンを呪ってしまいました。
    ただ、このような呪いの言葉を
    伝えられるカナンや、
    問題視されているハムよりも、
    酔いからさめた後の
    ノアの言葉や態度の方に
    問題を感じてしまうのは
    私だけでしょうか。
    ノアが天幕で酔って
    裸になってしまったならば、
    ハムが父親の裸を
    目撃してしまうことは、
    仕方がないことです。
    ハムが兄弟たちに
    相談に行ったことも、
    そこまで不自然なこととは思えません。
    むしろ、ノアの呪いの言葉は、
    酒に酔って、羽目を外してしまった
    自分のことを気にかけてくれた息子や孫に
    語るような言葉なのでしょうか。


    このように、この物語には、
    いくつかの疑問があります。
    そのため、ノアが呪いの言葉を語った
    その原因について、
    これまで様々な解釈が
    提案されてきました。
    創世記自身が記していることに
    基づいて考えるならば、
    裸を見られたことや、
    裸であったことを
    外で言いふらされたことが
    原因だと考えられます。
    古代イスラエルの人たちにとって、
    父親は家族の中で一番
    権威のある存在でした。
    そして、裸になることには、
    不名誉な意味合いがありました。
    そのため、裸を見られたり、
    裸になっていたことを
    外で言いふらされることは、
    そんな父親の権威を貶め、
    恥をかかせるものに
    なったかもしれません。
    文化的にこのような想定は
    可能ではあるのですが、
    だからと言って、ハムではなく、
    カナンの方に呪いの言葉が
    向けられる理由はわかりません。
    そのため、この物語だけを見つめても、
    ノアの言葉の意図は見えてきません。


    ですから、きょうは旧約聖書全体に
    視野を広げてみましょう。
    その際、キーワードとなるのは、
    「カナン」という言葉です。
    旧約聖書に登場する
    イスラエルの民にとって、
    カナンは神が与えると
    約束した土地でした。
    つまり、パレスティナやイスラエルの地の
    別名がカナンの地でした。
    ただ、そのカナンという場所には、
    既にそこで暮らしている人々がいました。
    旧約聖書のヨシュア記という文書には、
    イスラエルの民が
    カナンに住む人々を蹂躙し、
    土地を奪っていったという歴史物語が
    記録されています。
    また、カナンの人々やその文化は、
    イスラエルの民から避けられ、
    嫌われていました。
    そのような背景を理解した上で、
    きょうの物語を読み直してみると、
    読み方が変わってきます。
    創世記は、ノアの孫であるカナンを
    カナン人たちの先祖を代表させる
    人物として描いています。
    そうすることによって、
    カナンとその子孫であるカナン人たちを
    ノアから呪いの言葉を伝えられた
    存在として紹介しているわけです。
    これは、イスラエルの民にとって、
    カナンの地を侵略したことの
    正当性を伝えるような
    物語になったこと、でしょう。
    また、この物語が
    文字として書き記されたときに、
    カナンの文化を忌み嫌っていた、
    古代イスラエルの人たちの態度や思いが
    如実に現れた結果でもありました。
    このように、この物語は
    古代のイスラエルの人たちが
    カナンの地を侵略したことを
    自己正当化するためのものとして、
    理解することができます。
    それと同時に、
    イスラエルの民の間で広がっていた
    カナン人への差別意識を
    更に助長するような言葉が
    ノアの口を通して語られている
    物語といえます。
    そうであるならば、
    現代に生きる私たちは、
    ある意味で、反面教師的に
    この物語を受け止めていく
    必要があるでしょう。
    誰か重要な人物の言葉を借りて、
    自己正当化をはかり、
    差別意識を強めていく。
    そんな姿勢は、創世記が
    これまで伝えてきたこととは
    真逆のことです。
    私たちは、誰もが神によって、
    とても良い存在に造られています。
    私たちはお互いに、
    様々な違いを持ってはいます。
    その違いひとつひとつは、
    どれもとても素敵なもので、
    神の祝福と喜びのもとにあるものです。
    ですから、そのような違いや特徴が、
    特定のグループや特徴を持つ人たちが
    差別されたり、不当に扱われる
    理由や正当性を提供するものになど、
    なるべきではありません。
    それなのに、洪水が起こった後、
    ノアの口を通して語られるのは、
    特定の人たちに対する
    呪いの言葉です。
    驚いたことに、
    これはノアの初めての発言であり、
    彼の唯一の発言です。
    創世記はこれまで、人間の罪や過ちによって、
    大地が呪われたことを伝えました。
    そのため、人間自身は
    呪われる対象として描かれていません。
    けれども、とうとう人間のもとに
    呪いがもたらされてしまいました。
    それは、神によってではありません。
    人間の口を通してです。
    特定の人たちを苦しめる言動を
    自己正当化してしまう、
    そんな人間の言葉を通して、です。
    ですから、明らかに、
    この物語は信仰者の模範の物語として、
    読むことなどできません。
    むしろ、人々の間に
    特定の人たちへの呪いや敵意、
    差別意識を引き起こしてしまう、
    そんな私たち人間の現実を赤裸々に
    この物語は伝えているといえます。
    ですから、特定の人たちを呪い、
    特定の人たちのみを祝福するという、
    そんな態度の持つ問題を認識し、
    自分たちの姿を改めて
    見直すための物語として、
    私たちはこの物語を
    読み直すべきではないでしょうか。
    ここで描かれているノアのように、
    特定の人たちに呪いの言葉を
    向けていないだろうか。
    そのように自分たちに向けて
    問いかけるための、
    自分を見つめ直す鏡のような
    機能を持つ物語として、
    私たちはこの物語を読むべきでしょう。


    けれども、
    ノアがカナンへの呪いを語った、
    きょうの物語についての
    解釈の歴史を紐解いてみると、
    残念なことに、
    この物語を反面教師的に
    捉えることとは反対の道を歩むような
    解釈が繰り返されてきました。
    この物語は、特定の人たちを
    苦しめ、呪うことを
    正当化するために、
    用いられてしまいました。
    具体的に言うと、
    黒人たちを奴隷にすることについて
    説明し、正当化するために
    用いられてしまいました。
    黒人を代表させる存在として
    ノアの息子ハムを捉え、
    カナンをハムと読み替えました。
    そうすることによって、
    カナンへの呪いを
    ハムへの呪い、
    黒人への呪いと読みました。
    そして、ノアの言葉を
    神の言葉として受け取りました。
    つまり、神が
    ハムの子であるカナンを
    永遠に奴隷にしたため、
    その子孫である黒人は、
    永遠に奴隷とされているんだという、
    誤った解釈が、200年以上もの長い期間、
    アメリカやヨーロッパで
    正しい解釈として語られてしまいました。
    数え切れないほど多くの人たちが
    この解釈に傷つき、
    命を踏みにじられ、
    犠牲となってきました。


    そのようなわけで、
    ノアがカナンを呪ったこの物語は、
    この物語が私たちに
    語りかける以上の意味を持っています。
    誰かを踏みにじるために、
    聖書を用いてしまった歴史の上に
    私たちは立っているという事実から
    私たちは自分たちの目を
    背けることはできません。
    特定の人たちを煙たがり、敵視し、
    差別し、排除することや、
    そのような姿勢を取る自分たちを
    自己正当化することは、
    何も古代イスラエルや
    かつての西洋世界だけが
    抱えた問題ではないからです。
    そう、私たちが生きる現代社会も、
    そしてその社会で生きる私たちもまた
    抱えている問題です。
    外国人労働者にとって不利益な制度、
    給料の未払い、ハラスメントなどが
    悲しいことに起こっています。
    そういった現実を見ないふりしたり、
    自分の故郷を離れて暮らすことを
    本人が選んだことについて
    自己責任であると非難し、
    「日本人ファースト」という言葉を
    声高に叫ぶ。
    そんな声が一定の人たちに
    快く受け入れられてしまう。
    外国人労働者だけでなく、
    障がいのある方々や
    LGBTQの方々など、
    少数者の人たちにとって、
    生きにくい社会が今も
    形作られているのは、
    悲しい事実です。
    言葉や態度だけでなく、
    社会の制度や慣習によって、
    特定の人たちに
    呪いの言葉が伝えられ、
    特定の人たちにのみ、
    祝福の言葉が語られています。
    それは、神が願った
    世界や人間社会のあり方では
    決してありません。
    だって、神はこの世界を造ったとき、
    特定の人たちのみを祝福することから、
    始めなかったのですから。
    何の条件もなしに、
    そして、何の境界線や
    カテゴリー分けをすることもなく、
    すべての人間を、
    すべての命あるものを祝福することから、
    神はこの世界を形作られました。
    そうであるならば、
    特定の人たちを排除するような、
    ノアの呪いの言葉は、
    私たちが大切に握りしめるべき言葉では
    決してありません。


    むしろ、私たちが握りしめるべきは、
    使徒パウロを通して伝えられたような、
    主キリストに希望を置く言葉です。
    きょうは礼拝の中で、
    コロサイの信徒への手紙を読みました。
    パウロは言います。


    「そこには、もはや
    ギリシア人とユダヤ人、
    割礼のある者とない者、
    未開の人、スキタイ人、
    奴隷、自由人の違いはありません。
    キリストがすべてであり、
    すべてのものの内におられるのです。」
    (コロサイ3:11)


    パウロは、キリストを通して、
    私たち一人ひとりのうちに
    既に実現している現実を伝えています。
    それは、私たち人間が作り出す
    様々なカテゴリー分けや区分が
    最も重要なものではないという事実です。
    パウロは、どのような人のうちにも
    キリストを見つめています。
    キリストを通して
    神が共にいてくださっています。
    キリストを通して神を見つめ、
    神によって造られた
    尊い一人ひとりが目の前にいる
    という事実と私たちは出会います。
    そう、私たちは何よりも、
    教会の交わりのうちに
    この事実を知り、
    神によって造られた
    尊い一人ひとりと向き合います。
    教会のうちにこそ、
    ノアの呪いとは正反対の道が
    主キリストにあって実現していると、
    パウロは信じています。
    そう、ここで、
    教会という共同体においてこそ、
    ノアの呪いの言葉への抗議と抵抗の声が
    響き渡っていくべきです。
    神の前において、私たち誰もが
    等しく、尊い存在です。
    私たち人間がお互いの
    違いに基づいて作り出した、
    区別や属性などといった、
    境界線や壁は、
    本来はあるはずのないものです。
    まして、特定の人たちを
    呪うためにあるべきではありません。
    だからこそ、私たちは、
    お互いの違いによって
    壁や境界線を作り出すのではなく、
    そういったものをできる限り乗り越えて、
    共に生きることを選び続けます。
    特定の人たちを踏みにじって、
    その上に立って優越感に浸り、
    自分の立ち位置を
    確認するようなことはしません。
    共に手を取り合うことを選びます。
    神が祝福のうちに与えてくださった、
    お互いの違いを喜び合う道を
    歩んでいくことを選びます。
    きっと、教会が選び取っていく、
    そのような歩みが、
    差別の歴史に「NO」という意思を、
    それは私たちの本来あるべき姿ではないと、
    静かに突きつけ続けるような、
    ささやかな抵抗と
    なるのではないでしょうか。
    私は、キリストにある
    希望のうちに信じています。
    神が教会の歩みとこの交わりを通して、
    私たちがお互いの違いを乗り越えて、
    キリストに結ばれて共に生きることを
    いつも教え続け、
    励ましてくださっていると。
    そして、そのような
    交わりのうちにある喜びこそが、
    私たちの日常に、
    そしてこの世界に広がっていくことを
    心から願っています。
    どうかこの場所が、
    教会を通して与えられるこの交わりが、
    お互いの違いを呪うことを
    はじめる場所ではなく、
    キリストにあってお互いを見つめて、
    お互いの違いを祝福し合うことを
    はじめていく場所であり続けますように。

週報より

  • 2025.09.07 週報より抜粋・要約

  • ① 先週は礼拝後に教会全体会を開催しました。
    これからの教会について様々な意見が交わされました。
    詳しくは、週報棚にて配布した報告書をご覧ください。
    週報棚がない方で報告書が必要な方は牧師までお知らせください。

    ② 「折りづるプロジェクト」へのご協力ありがとうございました。
    集まった折り鶴は今週中に広島教会へ発送する予定です。

    ③ きょうは礼拝後に、讃美歌を歌う会と月例教会役員会を行います。
    役員会は讃美歌の後に行いますので、役員のみなさまよろしくお願いします。
    おもな議題は、教会全体会の振り返りと10月以降のイベントについてです。

    ④ 外壁塗装のための献金へのご協力のお願い
    私たちの教会はおよそ10年ごとに礼拝堂の外壁塗装を行っています。
    ご協力いただける方は、受付正面の壁にかけてある献金袋をご使用ください。

    ⑤ 『モレノ』特別号へのご協力のお願い
    4月1日に小山教会は、宇都宮伝道所正式発足から数えて50年を迎えました。
    その記念として、『モレノ』特別号を年内に発行予定です。
    特別号編集チームは、小山教会での思い出や、これからの教会への思いを
    綴った原稿を募集しています(400〜800文字程度、締切は10月末)。
    たくさんの方のご寄稿をお待ちしています。

    ⑥ 基嗣牧師は13日(土)から15日(月)まで不在です。
    呉教会での礼拝説教と、山陽四国地区での2回の聖会説教を担当します。
    15日(月)に小山に戻る予定です。旅の安全と会の祝福のためお祈りください。
    14日(日)の小山の礼拝は、石田学先生の担当です。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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